8号・神聖な「白」が味わえた「さらしなそば」

 今でこそ、そばは、その風味が大事にされていますが、かつては色の白さが珍重されました。さらしなそばです。どうしてこのような名前がつけられたのでしょうか。 光文社新書「蕎麦屋の系図」(岩崎信也著)が参考になります。

 高級そば

 江戸時代の文献によれば、「さらしなそば」という言葉は、古くは今から約250年前の寛延4年(1750)に見つけることができるそうです。ただ、これが白いそばのことを指すかは定かではありません、しかし、一方で、同じころの文献に「白いそば」があると指摘するものもあるそうです。

  その約40年後の1790年(寛政2)には、現在の東京・麻布永坂に「更科」という屋号のそば屋が創業します。出身は信州保科村(現長野市若穂町)で、最初は布の商いをしていましたが、経営者である主人のそば打ちの腕前がよかったため、そば屋を始めました。現在麻布には「更科」を店名に入れたそば屋が三つあります。その中の「総本家更科堀井」が直系だということです。いずれの店も今、白い「さらしなそば」を提供しています。ただ、江戸のころから今のような白さではなく、改良を加えて今に至っているようです。

 江戸時代は近くに大名屋敷や有力寺院があり、そこに出入りしていたそうで、高級そばとして人気がありました。さらしなそばを「御前そば」とも呼ぶのはその名残と見られます。(以上が「蕎麦屋の系図」から)

 1800年代に入ると、「更科」と言えば白いそば、という受け止め方が世間に定着していったのではないでしょうか。江戸時代の文献には「さらしなそば」のほかにも「信濃そば」「戸隠そば」「木曾そば」など信州の地名を冠したそばがたくさんあります。さらしなそばの命名には、色でも特色を打ち出そうという意識が働いたのでしょう。

 フカヒレに似る

 さて、肝心の白いそばのつくり方です。そばの実の一番真ん中の白い部分を使います。石臼で挽くと柔らかいので最初に隙間から出て来きます。それで一番粉と呼ばれます。さらしな粉という別名もあります。打ってそば切りにすると、甘みがあるのが特徴ですが、つなぎの役割を果たす成分が少ないため、手打ちでまとめるには熟練の技が必要でした。とすると、当時の人たちが好んだ訳も分かるような気がします。

  江戸時代も後半になると、生活が豊かになってただ満腹になるだけでなく、見た目、食感で食事を楽しもうという機運が生まれました。「日本の傳統色」(青幻舎)によると、白という色はもともと神聖・権威を象徴する特別なものでしたが、江戸時代になると、庶民化し、愛好、つまり暮らしのさまざまな場面で使うようになりました。食べるものにまで白ということで、大名をはじめ粋なお金持ちに迎えられたのではないでしょうか。

 そばは、粉でまるめて食べると「もう見たくもない」と言う人もいるのに、そば切りにすると「晴れの食事」になるというのは不思議です。技と手間をかけて初めてごちそうになるという点では、中華料理の高級食材となるフカヒレに似ています。そういえばフカヒレも乾燥時は白い色をしています。

 高原野菜の前は

 旧更級村にも2000年ごろまで、そばをつくっていたところがあります。須坂地区(旧更級村、現千曲市)の大谷製麺工場です。機械でこねて伸ばしてめん状に切ることから、手打ちに対して機械打ちと呼ばれるつくり方でした。

 同製麺工場は先の戦争の後、創業しました。食糧増産のため国の委託を受けて製粉機を導入し、小麦を使ってめん類をつくり始めました。しかし、うどんは収益があまりないので、そばを主体にしたそうです。

 原材料となるそばの実は当時、長野県川上村から仕入れていました。飯山方面からも取り寄せて、まさしく全信州産でした。

 ただ、高度経済成長期になると、川上村はレタスなどの高原野菜に力を入れるようになります。昭和40年(1965)ごろになると、国内のそばの実の生産量自体が減り、海外からも輸入せざるをえなくなったそうです。

 大谷製麺工場では製造を止めるまで一貫して、そばの実は自家製粉していました。粉をすぐ使うので香りが強いのす。長野県などが主催する「信州そば品評会」では食糧庁長官賞を受賞しました。お隣の戸倉上山田温泉をはじめ北は山ノ内町、中野市、東は軽井沢、南は松本方面の、主にみやげ物店に配達し、売ってもらっていました。

 矛盾の食品

 手打ちそばへの今のようなこだわりが生まれたのは、バブル経済がはじけた後ごろからではないでしょうか。飽食を味わってシンプルな食品とライフスタイルへの志向が強くなったのだと思います。手打ちには手間をかけてもシンプル、しかし風味が深いという特徴があるので、そうした矛盾の美学に引かれるのでしょうか。今でこそ男性が手打ちに高い関心を示しますが、かつては女性の家事の一つでした。

 製麺工場を経営していた大谷善胖(おおたに・よしひろ)さんは1932年生まれ。幼少時、旧更級村では、そばは自家用にほそぼそと作られていただけではないかと言います。今は減反による転作などでかなりの規模でそばの花を見かけることもあります。食品の表示内容にも関心が高くなり、「さらしなそば」はつなぎ以外は一番粉だけでつくらないと消費者は受け入れない時代です。それだけにさらしなの里の一番粉だけを使った正真正銘の「さらしなそば」を提供すれば、消費者の満足度は相当高くなるようが気がします。

 「更科」の文字が入っている東京・麻布の一つの店で食べていたとき、年配のご夫婦が私の隣のテーブルにつきました。注文した品が届き、旦那さんが「これがさらしなだ」と奥さんに説明している姿を見かけました。奥さんは旦那さんに初めて連れてきてもらったようでした。

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