11号・りんご栽培の先進地「更級」

 信州を代表する果樹りんご。県内で先駆けて栽培に取り組んだ一人が旧更級郡八幡村の和田郡平さんです。和田さんは現在の酒蔵「長野銘醸」の江戸幕末から明治にかけての当主です。有栖川宮(たる)(ひと)親王から苗木を下賜されて、明治6年(1873)に栽培を始めたということです。
 最大の生産集団
果物が信州の産物となっていく歴史をまとめた「長野県果樹発達史」は「和田家は松代藩時代から代々庄屋を務め、郡平氏は郡会議員、稲荷山銀行(後年の八十二銀行)の頭取も務めた人で、りんご栽培に熱中した彼の影響力は無視できないものがある」と記しています。
   一方、殖産興業政策の一環として明治政府が米国から輸入したりんごの苗木が明治七年、長野県にも配られました。民間の栽培者は、県や和田さんから分けてもらったり、独自のルートで手に入れて増えていったのですが、特に熱心な人が更級郡に多かったようです。
  「長野県果樹発達史」はそうした人たちとして旧真島村(現長野市)の中沢治五衛門さん、旧共和村(同)の柳沢亀治さん、旧川柳村(同)の山本茂太郎さんらの名前を紹介しています。
  大正時代には県下で最大の生産集団となり、更級郡園芸組合を発足させ、県内外に一大産地として知れ渡っていったようです。(同組合は栽培面積、生産量の増加につれて、町村単位の組合に発展しました)
  県庁に近く情報と物が手に入れやすかったという好条件に恵まれていたことは確かですが、気候、土質が向いていることに加え、消費者に受け入れられるという確信もなければそんなに広まらなかったと思います。
  その理由の一つとしてりんごの実の赤さと果肉の白さがあると私は思っています。
 磨けば光沢
 先の大戦後、「「りんごの唄」が大ヒットしました。赤いりんごに唇寄せて…」で始まる並木路子さんの歌声は戦災にあえいでいた人たちを励まし、復興の象徴歌となりました。当時の主力品種は紅玉と国光。この歌を耳にした人たちは「あの赤い果物」とイメージしたでしょう。手の平に収まる大きさ、袖でこすれば放たれる光沢、特に紅玉はその味のほのすっぱさ。それは親しみと記憶を呼び起こす食べ物だったと思います。
 ただ、値段は高くて庶民の口にはなかなか入らず、それだけにあこがれ、希望につながったということかもしれません。
  やや余談です。若手人気歌手の平原綾香の「ジュピター」が新潟県中越地震の後、一度落ちたオリコンチャートを再浮上したことがありました。「エブリデイ、アイ、リッスン、トゥーマイハート、独りじゃない…」というあの歌声です。ちょうど、この前後に単なる天災とは思えないような災害が日本列島を襲っていましたので、現代版「りんごの唄」とも言える現象でした。
 かつて「りんごをかじると歯ぐきから血が出ませんか」という歯みがき粉のテレビコマーシャルがありました。これも血の赤色を強調するための、果肉の白さを利用した宣伝でしょう。
 「白」が「さらしな」という土地柄と言葉の響きによく合っていたから、更級郡が「県産りんごの中核」」(「長野県果樹発達史」)となり得たと言っては言い過ぎでしょうか。
 りんご街道
 旧更級村もりんご栽培では頑張っています。その証がちくま農協更級支所の県道沿いの倉庫に大書されたさの文字です。さらしなの里友の会副会長で更級農協(現ちくま農協さらしな支所)設立時の職員だった堀内本啓さんによると、この建物は戦後、りんごの集荷、箱詰めのために建てられたものです。さは「さらしなむら」の「さ」で、「まるさ」と読みます。この表記が更級村産を証明する荷印として木箱に墨で印刷され、主要都市の市場に運ばれていきました。
    同農協更級支所長の塚田利勇さんによると、昭和四十年代にはりんご畑だけで旧更級村には百八十町歩ありました。現在のJR姨捨駅から冠着トンネルに至る中央線沿いもすべてりんご畑で、〝りんご街道〟だったようです。りんごの花は白く新緑の若葉とのコントラストが目に沁みます。その様は満開のそば畑に似ていないでしょうか。
  ただ、りんごが収入に結びつく地域の産物として定着するには曲折がありました。明治から大正にかけて盛んだった養蚕のための桑畑の転作が必要で、昭和の戦争時代には「ぜいたく品」として栽培が禁止されたそうです。
 歌とともに
 先見の明のある人は桑の間に植えておくなどしていました。そして戦後、先に触れた「りんごの唄」と歩調を合わせ全国的に人気果樹となります。さの書かれた倉庫もその流れに乗って、それ以前は個人やグループが畑や家の近くで自分たちで箱詰めしていたのを更級農協が組織的にやるようになった名残です。ここでの作業は昭和40年代前半までで、現在はこの倉庫の裏手にある大型機器が代わってしています。
 合併によってちくま農協になり、さは今は使われていませんが、更級支所の裏にはこの荷印の刷られた木箱がたくさんあります。今も収穫期は、これに入れて運ぶ生産者もいます。個人やグループで集荷していたときに使った荷印つきの木箱も残っています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。