15号・井上靖のルーツを刺激した「姨捨」

  作家井上靖の短編「姨捨」が井上にとって格別の思いが込められたものであることを知りました。小学館から刊行された「群像・日本の作家第二十巻」は井上を特集し、著者自選というコーナーで、外すことができない作品の一つに取り上げています。この中で長野県東筑摩郡坂井村の西沢茂二郎さん(故人)の著書「姨捨山新考」が井上に与えた影響の大きさがうかがえます。
 戦後の雰囲気
 まずは「外せない」理由についての井上自身の解説です―
 私は何回か自選集というものを編みましたが、どうしても「姨捨」というこの作品を外すことができませんでした。作者の私が考えて、取り分けいい作品とも、好きな作品とも言えませんが、どうしてもこの作品を外すと、自分というものを形成している大切な柱の一本が欠けてしまうような気がします。私という一人の作家の〝紋〟のようなものであります。
 この「紋」がポイントです。紋とは家々で定められている印、家紋のことですが、確かに井上は「姨捨」の中で、自分の一族を流れる「人間嫌いの血」という言葉を使い、生まれつきのどうしようもない性分の存在を記しています。
 「姨捨」によると、井上は幼少のころに姨捨物語を聞いたとき悲しくて声を上げて泣くほどでした。大学を出て新聞記者になってから西沢茂二郎さんの書いた「姨捨山新考」を手に入れます。そのころは最初の部分に目を通しただけだったそうです。新聞記者を辞めて作家になると、歌人や俳人などが残した姨捨や観月に関する作品がたくさん紹介されているところに関心を持つようになりました。
   こうした解説の後に「姨捨山に捨ててほしい」と懇願する自分の母親と、それに当惑しながらもこたえようとする井上との劇中劇が続くのですが、その劇が「姨捨山って月の名所だから、老人はそこへ捨てられても案外悦んでいたかもしれませんよ…」という母親が実際に口にした一言から始まります。井上は、この母親の気持ちについて、戦後の家制度の解体や老人を大事にしない時代の雰囲気に挑戦する気分も含まれていた、と書いています。「姨捨」を発表したのは昭和30年(1955)、高度経済成長が始まったころです。
 「姨捨」も文学ですから、書かれたことすべてが事実ではないと思われますが、著者自選の解説を踏まえながら読み直すと、「人間嫌いの血」は真実のように思います。人間が嫌いだからゆえに小説を通じて人間を知ろうとすると言えないでしょうか。
 二宮金次郎
 井上を刺激した「姨捨山新考」の著者西沢茂二郎さんについての情報が坂井村の公民館報にたくさんありました。
 西沢さんは明治の中ごろの生まれです。戦前、教員検定の難関とされた文検の中等教員、国漢科に合格し、小諸商業、長野商業高校で教鞭をとり、日本の古典や漢文に詳しかったそうです。そして昭和11年(1936)に「姨捨山新考」を著します。
  昭和26年12月15日号の館報に「おんたの二宮金次郎」と紹介された記事があります。「生まれついての学問好きで、(中略)野良へ出るにも本を手放したことがなかった」ことから「二宮金次郎」の別名が生まれたと記されています。「おんた」は西沢さんの住んでいた地区名が「大野田」であることからです。
 「姨捨山新考」は古今の文献を渉猟し、自分の言葉でかみくだいて解説したもので、姨捨山関係の「百科全書」と言ってもいいものです。
 特にかつて各地にあったと思われる姨捨伝説が当地に定着し、全国的に姨捨山として知られるようになった理由について、ていねいに諸説を紹介しているところが功績です(後日の回で記したいと思います)。研究者としての客観性を持った目で明らかにしようとするその姿勢は、館報で紹介された「わが功を語らぬ」「謙虚家」という西沢さんの人柄をほうふつとさせます。
 西沢さんは退職後は、坂井村の農協組合長を務めます。選挙管理委員会の委員長として、選挙による村づくりの大切さを幾度も館報で説きます。坂井村の歴史についての連載に取り組み、村史の編纂にも尽力しました。一九七四年にお亡くなりになりました。
 過去、将来ともに
 井上は駆け出しの新聞記者のころには関心のなかった「姨捨山新考」に、なぜ触発されるようになったのでしょうか。「姨捨」を発表したのは48歳のときです。この年齢も影響していると思います。もう一度、井上の言葉を引用します。
 この作品は、自分の体内の血がどういうものか、それを正面から追求してみようとした最初の作品です。この「姨捨」という作品を流れている基調音は、短篇、長篇を問わず、これからあとの幾つかの作品にも流れているかと思います。あるいはすべての作品に、多かれ少なかれ、流れているものかも知れません。もっと正確に言えば、これまで書いたすべての作品にも流れているものかも知れません。
 そういう意味では、自分を材料にし、自分の体内を流れているものを正面から見ようとした最初の作品であると言えます。これを書いたときは、―母を書き、弟を書き、妹を書き、叔父を書いたことは、そしてそうした人たちを書くことに依って自分というものを見詰めたことは、今振り返ってみると、私にとっては一つの事件であったかと思います。
 40歳代は、現在をはさんで過去も将来も見渡せる年齢でしょう。「姨捨山新考」が作家としてだけでなく人生を生きる人間としての井上の、根っこの部分を刺激したのではないでしょうか。この後、井上は「氷壁」「天平の甍」「敦煌」「しろばんば」など代表作を相次いで書き上げています。1991年、83歳で亡くなりました。
 奇しくも西沢茂二郎さんが「姨捨山新考」を出版したのも40代半ば。西沢さんも井上と同じように自分のルーツを刺激され、「姨捨山」に取り組んだのではないでしょうか。

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