39号・更級村の歌の数々

  歴史文化から産業、地形まで旧更級村の特色を詠み込んだ歌の数々を紹介したいと思います。いずれも終戦直後からしばらくの間に作られたものです。
 村づくりへの意気込み
 まずは更級村の青年団歌です。羽尾の郷土史家の塚田哲男さんに歌詞の書かれた紙(写真上)を見せていただきました。活版印刷で山と渡しの間に詞をはさんでいます。冠着山と千曲川をモチーフにしたと思われます。塚田さんによると、詞をつくったのは戦後の新しい学制で誕生した更級中学校の先生、今村寛さんで、その後、歌人の結社の一つである「コスモス」の同人となった方だそうです。
 歌詞には敗戦を機に若者が新しい村づくりの担い手になるんだという期待と希望が満ちています。特に4番の「古今をつなぐ里の名に負びてぞ振るへ」は、更級小学校校歌を締めくくる4番の言葉「里の名を世に伝うべし」に匹敵するもので、更級村の自負と使命を強烈に意識させます。
 当時の青年団長でいらした高村元一さん(羽尾地区在住)が今村さんに作詞を依頼しました。戦後は、気持ちの吐きどころがないと生きがいがない時代だったと高村さんはおっしゃいます。青年団の歌を若者がみんなで歌うことによって一つの方向性を持って自分のこと、そして村のことに当たれるよう期待したのだと思います。そうした意気込みは「公民館報さらしな」からもよくうかがえます。高村さんとそのお仲間が編集の中心となっており、村の新たな進路を盛んに熱く論じ、必要な情報をたくさん提供しています。青年団歌はその思いを汲み取っていると言えるでしょう。
 作曲はだれなのか分かりませんが、完成披露は木造時代の更級小学校の体操場で行われました。長野市の中学校の生徒たちがわざわざ来て演奏してくれたそうです。塚田さんは曲を覚えていらっしゃるということなので、いずれ聞かせていただきましょう。
 生徒自ら作詞と作曲
 次に旧更級中学校の「校友会歌」です。校友会は今の生徒会のことですから生徒会の歌です。この歌の存在を教えて下さったのは塚田克己さん(羽尾地区在住)です。塚田さんご自身が作詞したというのですが、記憶が定かでないというので、資料を探しました。
 ありました。校友会が昭和30年度(1955)に編集発行した「学友」という冊子です。A5判約80㌻で、磯部地区(旧戸倉町、千曲市)にお住まいの古旗治男さんがお持ちでした。さらしなの里歴史資料館の小山好子さんに教えてもらい読むことができました。
 校友会の機関誌の創刊号で、巻頭に校友会歌として「文化の道」と「輝く健児」の二つが載っています。機関誌発刊の節目に校友会の歌をつくる企画が持ち上がり、文化の道と輝く健児という二つのタイトルで生徒たちに詞と曲を募集し、結果をお披露目したのだと思われます。
 文化の道の作詞者は小松正典さんです。小松さんは「学友」の中でいきさつについて「家の窓ガラスを開けるとすぐ冠着山が目に入った。よし冠着山を主にして作ってみようと思うが、校歌と同じになってしまう。それでも頭の中は冠着山と千曲川の景色がいっぱい。山と川、僕はそれがよいと心に決め、この山と川の中間の学び舎に楽しく勉強して文化に遅れぬようにしたいと思った」と記しています。(中学校の校歌は小学校の校歌と同じでした)
 「輝く健児」の歌詞を塚田さんにお見せしたところ、塚田さんは「冠着山に朝日があたってキラキラしているように、いつも瞳を輝かせ、純粋な気持ちでいたいという思いで作ったような気がする。今は雑念ばかりになってしまった」と照れていらっしゃいました。 
 応募数も書いてありました。文化の道、輝く健児にそれぞれ18点ずつ。作曲には文化の道に45点、輝く健児には24点。作曲者についてはそれぞれの1位から佳作まで名前が書いてあります。文化の道の1位は北沢のぶさん。輝く健児の1位は市川すみ子さんです。自らの手でみんなでという生徒たちの歌づくりには、終戦直後の青年団歌づくりの思いが受け継がれていたようです。
 合併でうやむやに
 三つ目は更級小唄です。更級村公民館が昭和29年、村民に募集し、金井幸雄さんという方が優秀作の一つに選ばれた―とシリーズ19号で紹介したところ、ご本人からその後のいきさつをしたためたお手紙をいただきました。金井さんの弟さんである金井達雄さん(仙石在住、旧更級村)が届けて下さいました。
 お手紙によると、金井さんがこの詞をつくったのは更級中学校3年生だったとき。公民館から賞金500円と記念品を受け取りました。曲を付け、振り付けも施されて更級村で広く使われるという予定でしたが、残念なことに、その後の戸倉町との合併(昭和三十年)でうやむやになってしまったそうです。19号で載せられなかった全歌詞を掲載しましたので、ご覧ください。
 金井さんは小学校4、5年生ころから歌われる詩に関心があり、更級小唄が入選してからは一層作詞に引かれました。今は千曲市上徳間にお住まいで、「千曲川慕情」など故郷を題材にした詞も作り、カセットテープやCDの制作も手掛けています。こうした創作の原点は「遠く更級村にあり、『さらしな』を想いながら、いつか郷土のみなさんに歌ってもらえる歌を書きたい」という思いだそうです。
 足でつくった歌
 もう一つ最後に、飴売り歌です。これはシリーズ2号で紹介した松本与喜のさんが覚えていらした歌です。若宮から三島まで旧更級村の地区名をだじゃれを効かせながらすべて盛り込んでいます。
 この歌を教えてくださったのは松本さんの近くにお住まいの野本洋子さんです。松本さんは「終戦後、朝鮮人の飴売りがこれを歌いながらやってきて、たぐり飴などを売っていた」とおっしゃっていました。リズミカルな節がついていて、太鼓を叩いて売り歩いていたそうです。
 お隣の旧八幡村の地区名まで南から北へ順番に、地形も踏まえてうたっていますから、飴売りさんは自分の足で稼いでこの歌をつくったのだと思います。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。