54号・中国大陸にあった「更級郷」

 インターネットで「更級」をキーワードに検索していたところ、中国・旧満州にも「更級神社」があったことを知りました。戦前の「満州開拓」の際に造られたものです。さらに調べていくうちに旧更級郡出身者でつくる「更級郷」が旧満州にあり、学校教育も行われていたことを知りました。
 最多だった長野県
 満州とは中国の東北部、現在の北朝鮮の北方、ロシアとの国境までの間に広がる地域です。日本が日清戦争と日露戦争の勝利にょって満州での経済開発の権益を手に入れました。日本は明治維新で近代国家の仲間入りをし、欧米列強に追いつくため満州も拠点に富国強兵を目指しました。国を挙げて満州への移民政策に取り組み、全国から移住。長野県は中でも最も多くの人を送り出しました。
 県民単位でつくった村、町村ごとに出身者でつくった村など、さまざまな形態がありましたが、更級郷は郡規模で移民しました。「長野県満州開拓史」によると、「更級郷開拓団」は東安省宝清県尖山、ロシアとの国境に近いところです。昭和15年11月、入植しました。終戦時、南は村上村から北は真島村まで郡全域から約120戸、500人が住んでいました。
 更級神社はその更級郷に、開拓を始めてから少し余裕ができた昭和18年10月、団員の心の寄り所として建立されました。用地は15㌶、本殿は4㍍四方の木造で、ご神体は伊勢神宮と八幡村の八幡宮のご分体を遷座し、八幡宮の神官が渡満して入魂式を行ったそうです。
 勤労教育を重視
 尖山での学校生活はなかなかのものだったようです。先生の一人として赴任した旧更級村羽尾地区(現千曲市)出身の塚田浅江さんの手記(日本放送協会発行の「満蒙開拓の手記」に掲載)からです。
 塚田さんが満州に渡ったのは、更級郷の入植から約5カ月後の昭和16年4月、新潟港から船で今の北朝鮮の港に入り、到着まで約1週間かかりました。校舎は土づくりの民家を改造したもので、最初は子どもが30人ほどでした。教科書は日本の国民学校(現在の小中学校)のものと同じものを使いました。開拓地ですから、最初から勤労教育に重点が置かれていました。
 2㌶の学校園には大豆、もろこし、芋、西瓜などを植えました。荒地などで心配しましたが、一年目から驚くほどの収穫がありました。鉄棒、平均台は高学年の子が木の切り出しから仕上げまで、低学年は萩を集めて箒作りなど自分でできることはみんな自分たちでしました。貧富の差もなくのびのびとした教育が行われていたそうです。
 豚を飼い、屠殺から解剖学の勉強。さらに精肉し、腸詰もつくりました。「何もないところから作り出す面白さ、それは人間にしかできない知恵であり、また喜び。子供たちの将来にとってまたとない経験であり、教育であった」と塚田さんは振り返っています。
 尖山は北海道の最北端にある宗谷岬よりもさらに北の緯度にあります。だから、冬は長く厳しいのですが、春になると、福寿草、サクラソウの群落が開花します。原野の褐色がにわかに草原にかわり、鳥が集まり、そこで遊ぶ子供、労働の姿が生き生きと描かれています。
 子どもは3人だけに
 しかし、戦況が悪化し、旧ソ連軍が侵攻してきて、引き上げる際に多くの人が命を失いました。 
 旧ソ連軍の侵攻は、終戦を7日後に控えた昭和20年8月8日。満州にいる日本人に避難命令が下りました。塚田さんたちはすぐまた戻るつもりで家財を釘付けしたまま、多少の食糧を持って着の身着のままで、避難を始めました。
 しかし、最寄りの大きな町、宝清に集結しましたが、守ってくれる部隊はなく、さらに日本軍の守護を期待して歩きます。上空にはソ連の偵察機がひっきりなしに飛び交います。ついにソ連軍の襲撃があり、応戦します。わが子を殺害した上で自決した母親もいたそうです。
 塚田さんは意識を取り戻したときは右目を失明し、左耳の聴覚を失いました。それでも約70人の更級郷の人たちと再会し、その後も歩いたり列車に乗って引き揚げます。しかし、途中で病気や栄養失調などで亡くなり、日本に上陸できたのは塚田さんと子供3人だけでした。
 塚田さんは帰国後、命を落とした人たちの弔いのためいろいろな活動をします。満州に残った「残留孤児」の調査に取り組みました。終戦から20年後の昭和40年(1965)には信濃毎日新聞への塚田さんの投書も契機になり、同紙が大型の企画記事に力をいれたことがありました。「この平和への願い」というタイトルで、題字を塚田さんが書き、連載の第一回目は塚田さんの体験が紹介されました。
 さらにそれから2年後の昭和42年、お隣の埴科郡出身者たちの埴科郷も多数の死者を出す悲惨な終戦を迎えていたため、塚田さんを含む両郡の関係者が一緒になって現在の千曲市上山田地区(旧更級郡上山田村)の城山に慰霊碑を建立しました。
 枕を並べながら
 塚田さんは2000年、90歳で亡くなりました。私は残念ながらお目にかかることができませんでしたが、晩年の塚田さんの様子が島利栄子さんがお書きになった「ときを刻む信濃の女」(郷土出版社)の中に記されています。
 島さんは長野県東筑摩郡坂北村(現北村)のお生まれで、現在千葉県八千代市在住。「女性の日記から学ぶ会」を主宰し、働くことによって経済的にも自立する女性や地域の政治・政策に関わっている女性たちへの取材もしてきた方です。あるとき、前述の「満蒙開拓の手記」を手にし、塚田浅江さんに手紙で連絡を取り取材を始めました。「床を並べて一緒に寝たりしながら」お話を深く聞いていらっしゃったそうです。
 島さんによると、塚田さんは女学校(現在の長野県立篠ノ井高校)の時代、特に地理や歴史の授業が待ち遠しく、世界の四大古代文明に強く心引かれたそうです。昭和12年、日中戦争が始まると、応召される男性教師のあとを埋めるため補充教員の養成が急務になったのを受け、塚田さんは29歳で師範学校の速成コースを受講、先生の資格を取りました。仕事場として満州を選んだのは、雄大な中国大陸へのロマン、半分は経済的理由でした。
 塚田さんは戦後も先生の仕事を続けました。千曲市野高場にお住まいになりながら、前述の活動をし、退職後は世界各地に旅をし、「自由に世界を闊歩したいという少女時代の夢を達成できたのでは」と島さんはお書きになっています。塚田さんは更級村初代村長、塚田小右衛門さんのお孫さんでもありました。 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。