58号・吉野山に刻まれた「さらしな」

   桜の花の里で知られる奈良県の吉野山に行く機会がありました。吉野山は2004年、世界遺産に登録されたところです。月の里、姨捨山の麓の生まれのわが身として訪ねたいところでした。驚きました。更級は吉野でもおおいに刻まれていました。
 分岐点の前面に
 中央に見える大きな屋根の建物が、これもやはり世界遺産に登録された金峯山寺の本堂「蔵王堂」で、周辺の黄緑色の部分が花の終わったあとの桜の群生地です。その蔵王堂に隣接する「吉野山ビジターセンター」には、軽井沢町追分にある「分去れ碑」の写真がパネルで展示されていました。館長の蜂谷昌康さんによると、同センターが開館したのが昭和52年(1977)。ですからそれ以前に撮られたものです。「信州にも吉野のことがあるということで展示になったのでは」とのことでした。
 この写真は歴史的な事実を証明する上でも貴重な資料です。ちょっと小さくて見にくいかもしれませんが、一番下のパネルをご覧ください。「さらしなは右みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」の碑文が記された石が道の分岐点の前面に置かれています。右の道(北国街道)を行くと月の里のさらしなに、左の道(中山道)を行くと桜の里の吉野にたどりつく―という趣旨を意味するこの碑についてはシリーズ17号で紹介しました。
 そのときの写真では、子持ち地蔵の台座になっていますが、もともとはこのように単体で北国街道と中山道の分岐点の前面に置かれていたのです。書くにあたって当時調べた資料の中には、この石碑は台座ではなく地面の上に置かれていたという記述もあってどうかなと思っていたのですが、この写真でそれが事実だったことが判明しました。
 吉野の桜についての解説パネルの隣に展示されていたので、それだけ大事な資料として、センター建設当時も認識されていたのだと思います。
 蜂谷さんのお話でもう一つ驚いたのが、信州の山桜の工芸品が昔から吉野山のみやげ物屋で売られていたということです。
 吉野山は修験道の開祖とされる役行者が西暦700年ごろ、桜の木で蔵王権現を彫ったことから、歴史的に桜がご神木になりました。そのため、利益を目的に切ることができず、桜細工は地元では作ることができなかったそうです。そこで山桜がたくさんある信州の業者がつくって持ち込んでいたということです。
 修験者の交流
 こうしたお話を聞いていて思い出だしたのが、当地の冠着山(別名・姨捨山)も修験道の霊場だったことです。日本では古来、山は神様の住むところで神様そのものと考えられ、そこに仏教の教えが加わり、奈良時代になると山に入って修行する人たちが増えました。高下駄を履いて鼻が長く人間のしわざを超える妖術使いの「天狗」は修験者がモデルです。
 郷土史研究家の塚田哲男さん(2007年5月、逝去)によると、冠着山も中世、修験道の道場でした。信州での修験道のメッカは戸隠山ですが、冠着山は戸隠山とくらべて里に近く、容易に入山できるので、「ミニ戸隠山」として修行者の集まる所となりました。
 冠着山には修行にまつわる地名が残されています。「久露滝」「不動滝」は冷水を浴びながら神仏に祈願し心身の穢れをとる水ごりの場。旧坂井村(元筑北村)との境にある「甲見堂」は「小御堂」とも書かれ、小さなお堂があったとされます。そこと冠着山頂との間ののくぼみにあたる小さな峠を「行者峠」と言います。峯入りという行者の修行の証を残している地名です。山頂直下には、坊(お寺のもと)があったとされる「坊城平」という地名があります。
 吉野の金峯山寺は中世、修験道の本山的なところでした。写真中央の家屋沿いの尾根沿いを走る道が修行の道で、弘法大師が開祖で知られる高野山の熊野まで約百七十㌔続いており、この道も世界遺産に登録されました。その道を一週間余りかけて歩く「奥駆け」と呼ばれる修行があるのですが、当地からも行っていた人たちがいたと思われ、当然、「生国は信濃の更級」と自己紹介することもあったでしょう、それを聞いた人は「そうですか。月の里からおいでか」などと話題が弾んだかもしれません。
  信州との関係が深まった背景にはシリーズ56号で触れました村上義光のこともあった可能性があります。南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の息子「護良親王」を守るため自害した武将で、村上一族はもともと更級郡の発祥です。「義光が出たのはそういえば更級でしたな」と修験者の間で話題になったことも十分に考えられます。
 義光が自害したのは金峯山寺前面に広がる境内の中心部で、そこには「忠死碑」が建っています(写真右)。このスポットからは吉野山ビジターセンタをはじめ、吉野山の奥が望めるロケーションです。
 千曲市更級地区(旧更級村)にも、「吉野」という地籍名があります。後醍醐天皇のもう一人の子ども、護良親王の兄弟である「宗良親王」が更級地区にも住んだことがあるという言い伝えがあるのです。郷土史家の塚田哲男さんのご著書「さらしなの里 羽尾の名石、歌碑、句碑、地名のいわれ」によると、宗良親王が当地に住んだ折、この所の景色が奈良の吉野に似ていると言ったことから、この名が付けられたという伝説が残っているということです。
 天武天皇の歌踏まえ?
 もう一つ、吉野と更級の因縁を感じたのが、天武天皇が吉野について詠んだ和歌です。万葉集にある歌で地元の案内本の冒頭に紹介されていました。
 よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見
 天武天皇は大化の改新(645)後の673年に即位し、現代の内閣制度につながる国家運営(律令制度)を進めた天皇ですが、天皇になる前、吉野に住んでいました。そのときのことを思い出して詠んだとされ、とにかく吉野はいいところだということをしゃれも効かせて詠んだ歌です。
 この歌の存在を知って思い出したのが、佐良志奈神社(旧更級村、現千曲市若宮地区)の社標に刻まれた歌です。
 月のみか露しもしぐれ雪までにさらしさらせるさらしなの里
 同神社宮司だった豊城直友さんが江戸幕末、京都の正親三条実愛卿の姑、柳原大夫人に頼んで作ってもらった歌です。しゃれも効いて面白い歌だと思っていたのですが、彼女は歌の名門の家の素性なので、「花の吉野」に並ぶ「月の更級」を意識し、天武天皇の歌を踏まえてつくった可能性があります。(社標についてさらに詳しくはシリーズ3号をご参照ください)画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。