65号・芭蕉ゆかりの十六夜観月殿

 旧更級郡で、松尾芭蕉にゆかりのある所としてよく知られるのは長楽寺(千曲市八幡)ですが、坂城町網掛の十六夜(いざよい)観月殿(写真中央)も外せないゆかりの地であることを最近になって知りました。十六夜山の突先の高台です。
 芭蕉が当地来訪後にまとめた「更科紀行」の中に盛り込んだ句「十六夜もまだ更科の郡かな」を、芭蕉の若いころの俳号「桃青」と一緒に刻んだ句碑(写真上)があります。近くにかやぶきの清楚な十六夜観月殿が建っています。伸ばせば手の届きそうな面前に千曲川、先には鏡台山があり、中秋の満月が昇ってきたときは…と想像するだけでわくわくしました。長楽寺より低地にあるせいもあり、抱かれているような感じを覚えます。
 人気テレビ番組「笑っていいとも!増刊号」の編集長役で登場していた作家の嵐山光三郎さんが著書「芭蕉紀行」(新潮文庫)で、「更科紀行」の旅程を実際にたどった文章を書いています。その中に十六夜観月殿に寄ったくだりがあります。

 嵐山さんの感想です―
 「姨捨から坂城にかけては芭蕉ゆかりの枯淡の名勝が多く、また『奥の細道』ほど知られていないため、旧跡が荒らされず、趣が深い。この地に、三百年前より俳諧の嵐が吹き、それがいまなおひきつがれている。芭蕉の言霊が生きている。十六夜観月堂より千曲川を見下ろし、つくづく『人々の芭蕉への思い』を感じた」
 ややほめすぎの感もありますが、嵐山さんはこの文章を、芭蕉がここに立ち寄ったという前提で書いています。本当かなと思って坂城町史を開いたところ、はっきりしているわけではないというような説明があります。しかし現地に建てられた教育委員会制作の説明板には「芭蕉が立ち寄った」と書いてあります。参道沿いにある三日月型の切り込み入りの常夜灯(写真下)に、地元の人たちの思い入れを感じました。
 芭蕉は十六夜観月殿のあるこの地に立ち寄ったのかもしれませんし、立ち寄らなかったかもしれません。今となっては、確かなことは分かりませんが、芭蕉が姨捨、長楽寺近辺で中秋の名月(十五夜)を味わった翌晩、坂城で十六夜の月を観賞したことは確かです。
 十六夜観月堂がある一帯は、武田信玄を合戦で破ったことで全国に名を広めた戦国武将、村上義清を輩出した村上一族の発祥の地で、江戸時代より前にさかのぼれる神社の村上大国魂社がある地です。芭蕉が来訪したのは戦国の乱世が収束し、まだ百年がたたないころですから、芭蕉にとってもなまなましい史実だったと思われます。とすれば、芭蕉がここに立ち寄ったとしてもおかしくはありません。
 芭蕉はこの後、さらに旅を続け、浅間山を眺めます。そのときに作った句が「吹き飛ばす石はあさまの野分かな」として更科紀行に収められています。芭蕉はさらに碓氷峠を越え中山道経由で江戸に戻っていきました。そしてその翌年、芭蕉文学の集大成となる「奥の細道」へと旅立っていったのでした。嵐山さんは「芭蕉紀行」で、更科への旅は芭蕉にとって「(次の旅の『奥の細道』で勝負を賭けるという)その追いつめられた強い息が『更科紀行』に凝縮されている」と書いています。
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 「俳聖」とも称される松尾芭蕉が更級・姨捨に来訪したのが江戸時代の元禄元年(1688)。2008年は以来、320年となります。芭蕉の残した「更科紀行」にまつわるエピソードに、もう一度注目したいと思います。

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