68号・晩年によみがえった長谷寺参籠

 菅原孝標女が自分の越し方を振り返った文章に「更級日記」というタイトルをつけた理由に、奈良県桜井市初瀬にある長谷寺での「参籠体験」が関係しているのではないかと考えています。参籠とは、寺の本堂などに籠もり経を唱えたりしながら、心に積もった悩みや苦しみから逃れることを願う体験を言います。
 平安時代の貴族女性にとって、この長谷寺は特に厚い信仰の対象でした。私も行ったことがあります。屋根の付いた回廊を登ってたどり着く本堂、その内部の暗闇に鎮座する10メートルにも及ぶ観音菩薩立像。本堂から一歩出れば三方を山の木々に囲まれ、紫陽花や牡丹をはじめたくさんの花で彩られる美しい景観…人為と自然の織り成す小宇宙の中に身を置いていると感じました。土地の条件と訪れる人たちの相互作用によって育まれた稀有な場所だと思いました。
 孝標女が最初に長谷寺を訪ねたのは、祐子内親王への宮仕えの仕事を退いてからしばらくして39歳のときです。参籠した寺として更級日記ではほかにも石山寺(滋賀県大津市)のことを書いていますが、長谷寺についての記述は特に長く割いています。
 新しい天皇の即位を権威づける「大嘗会の御禊」の日に出かけたため、いろいろ言われたそうです。毎年新しく取れたお米を天皇が食べる儀式を新嘗祭と言いますが、新天皇の即位後初めての新嘗祭を大嘗会と呼び、御禊とはそれに先立ち都を流れる賀茂川で心身を清める行事でした。
 それを見物に都の内外からたくさんの人たちが来ていたのですが、その流れと反対方向に都から出ていくわけです。しかも浄衣姿、つまり白装束で供の者を率いて出かけたわけですから目立たないはずがありません。これまでの連載で触れたように孝標女は新天皇の前の後朱雀天皇の娘である祐子内親王に出仕していたことから、もう自分の出世とは関係ないことだし、と開き直っていたかもしれません。
 長谷寺までは大体、3泊4日の旅で、孝標女は夜の盗賊を警戒したことや宇治平等院や東大寺にも参拝したことなど。途上の見聞をいくつも記しています。
 47歳のとき2度目の長谷寺参詣をします。そして50歳ごろになって最初の長谷参りのときにみた「験の杉」の夢のお告げを実行しなかったから、源氏物語などに描かれたロマンスばかりに夢中になって満足できない後半生になってしまったと振り返っています。験の杉とは、京都の伏見稲荷神社のご神木の杉の若木を持ち帰って植え、吉凶を占うことを言うのですが、孝標女はそれをしなかったと悔やんでいるのです。また、自分の足で長谷寺を訪ねるずっと前の28歳ころには母親が自分のために鏡を長谷寺奉納したことがあったと振り返るくだりもあります。
 更級日記の記述は50代半ばまでで、孝標女が実際にいくつで亡くなったのかは分かりませんが、老いや死を強く意識する年齢になって長谷寺のことが特に思い出されるようになったのです。
 長谷は平安時代、「はつせ(初瀬)」と呼んでいたことが、更級日記を書写した鎌倉時代の歌人、藤原定家の筆跡から分かります。また、た寺のある山は「小初瀬山(おはつせやま)」とも呼ばれました。
 そうです。「おはつせやま」と言えば「おばすてやま(姨捨山)」。姨捨山は信濃国の更級の里にある…。こんな連想が孝標女の頭の中で働き、日記のタイトルには「更級」を入れたらどうかと考えたかもしれません。小初瀬山に抱いていた美しいイメージと晩年の境地が響き合って、このタイトルが思い浮かんだとき、姨捨山のふもとにある「更級の里」が安住の地として浮かび上がったかもしれません。
 上の写真は長谷寺の回廊沿いに咲く紫陽花、下の写真は回廊内部。中央は大正時代に作られたと思われる長谷寺境内の絵がはきで、最上部中央が本堂です。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。