80号・俤句は蕉風復興の道しるべに

  松尾芭蕉が当地で残した「俤や姨ひとりなく月の友」の句は、柱状の大きな石に彫られ、長楽寺(千曲市八幡地区、旧更級郡八幡村)の月見堂の前に建っています。句は側面にあり、正面には「芭蕉翁面影塚」と刻まれ、「面影塚」と呼ばれています。この「面影」は句の冒頭の「俤」のことです。当時は一つの言葉を別の漢字を使って表現することが普通に行われていました。
 メーン道路沿い
 芭蕉といえば俳句と連想しますが、その間にはいろいろな世情があり、現代の俳句の大本を切り開いた芭蕉の作風「蕉風」は芭蕉の死後、衰退ました。没後50年の1700年代半ば、もう一度、詩としての俳諧を復興させようとした運動の象徴、記念碑がこの「面影塚」なんだそうです。さらしな・姨捨と文学の関係についての研究第一人者、矢羽勝幸さんの論考から多くを教えてもらいました。
 まず、大きさ。高さ215㌢、幅54㌢、奥行き39㌢。これは芭蕉碑の中でも最大規模だそうです。碑の名前をわざわざ「面影塚」と刻んだことからもその思い入れの強さがうかがえます。「塚」には道しるべという意味があります。
 建立された場所は、かつては人が一番往来する道沿いでした。下の写真をご覧ください。明治か大正時代の長楽寺を映した絵はがきです。手前に斜めに走るのが当時の道で、中央に長楽寺境内の入り口となる門、その左に月見堂が見え、その間に建っているのが面影塚です。旅人でしょうか。荷を背負った人たちが道を登っています。当時はこの道がメーン道路でした。
 地中には義仲寺の土
 面影塚建立の中心役を担ったのは、加舎白雄。信州・上田藩士の次男として元文3年(1738)、江戸で生まれ(没年は1791年)、俳諧師、白井鳥酔に多くを学びました。当時、30歳代前半でした。
 矢羽さんによると、鳥酔には信濃出身者が多く師事しており、彼はかつて芭蕉が旅し、自分の俳諧に心を寄せる人々のいる信濃にかぎりないあこがれを抱いていました。日ごろ自分の信ずる蕉風俳諧を信濃に根づかせたいと念願しており、俳人としてのひらめきや覇気のある若者の白雄が信州ゆかりの人間であることから、白雄に白羽の矢を立てたのです。  師匠の期待を一身を受けた白雄は当地一帯で門人を率いるようになり、鳥酔の門人も含め、建碑を持ちかけたのでした。
 寄付を募り、明和6年(1769)の8月15日、面影塚を長楽寺に建立しました。現在、境内に林立する句碑の先駆けです。
 建碑に合わせ、その趣旨と師匠、鳥酔の門人らの句などを盛り込んで「おもかげ集」を出版しました。そこには芭蕉が敬愛していた平安時代末の武者、木曽義仲の墓がある近江の義仲寺(滋賀県大津市)の土を取り寄せ、つぼに入れて塚の下に埋めたと書かれています。芭蕉が葬られた義仲寺の土をわざわざ持ってきたということは、そこが芭蕉のお墓でもある意味を込めたことになると、矢羽さんは指摘しています。白雄たちがこの碑に注いだ意気込みがうかがえます。
 虫も案山子も 
 碑の序幕は中秋の8月15日にあったのですが、そのときの様子は「おもかげ集」に盛り込まれたいくつかの句からうかがえます。句に添えた漢字2文字は鳥酔の流れをくむ門人の号、俳句をたしなむときに使う名前です。
     月澄みや照りあふ塚のいや高き    柴雨
 確かに「面影塚」のそばに立つとその大きさに圧倒されます。一方で、柱のようにスリムなので、俳句のような清れつ感が漂っています。月の明かりが碑面に反射してお互いが照らしあうような空間になっていたのでしょう。次は、
    塚に寄る虫は何々けふの月    路一
 「けふ」は今夜の意味。月明かりだけでなくちょうちんなどで明かりを取ったのでしょう。虫もたくさん寄ってきて、虫もなんでこんなににぎわっているのか驚いている、という気持ちをユーモアを交えて詠んでいます。次も楽しい句です。
    碑や田毎の案山子こちらむけ  路芳
 棚田ごとにある案山子の中には反対側を向いているのもあったのでしょう。お祝いなんだからこっちを向いてよという気持ちでしょうか。最後は白雄自身の句です―
    碑おもてや月を後ろに拝みけり
 1年に1度しか見ることのできない名月にお尻を向けてもうしわけない。それでも月明かりで輝く「芭蕉翁面影塚」と刻まれた碑の正面を見て、達成感に全身でひたっている白雄の様子が想像できます。
 千曲市戸倉の坂井銘醸酒造コレクションには白雄に関係した資料がたくさん展示されています。右の写真の奥の肖像が白雄です。坂井銘醸は白雄が逗留、物心両面の支援をした坂井家のお宅で、文書資料がたくさん見つかりました。矢羽さんはそれなどをもとに研究の成果を「俳人白雄・人と作品」(信濃毎日新聞社)にまとめました。写真もたくさんもりこみ、平易な文体で紹介され、白雄の全体像に触れる良書です。
 本格的に棚田
 それにしても蕉風の先駆け句「古池やかわず飛び込む水の音」で、のちに芭蕉は「飛音明神」と称され、神格化までされるのに、なぜ、衰退する時期があったのか。芭蕉没後、各地の弟子たちが自分流に句作をし、世俗化してしまったことなどが原因らしいのですが、大衆化されたからこそ現在の俳句隆盛につながる基盤も作られたとも言えます。
 白雄は「もう一度芭蕉が目指した芸術、詩としての俳諧に帰ろう」という運動を担った有力者の一人でした。ほかの有力者には与謝蕪村もおり、蕪村と並んでよく白雄の名前が取り上げられます。
 1700年代前半は、戦国時代のような戦争はもうない時代になって100年。人口が増加し、農民にも貨幣経済が浸透し始め、新しい田んぼの開発をたくさん各地でやらなければならない時代でした。そうした流れの中で、現在の姨捨棚田につながる斜面の開発も進みます。旧更埴市(現千曲市)がまとめた報告書「名勝『姨捨(田毎の月)』保存管理計画」によれば、1700年代に入ると、棚田が本格的にでき始め、面影塚が建立されたころにはかなり、棚田の風景が広がっていたと思われます。そうした景観の魅力の高まりも建碑の時期と重なっています。
 面影塚が出来たのが1769年ですから、2009年は建碑240年です。最上部の写真は、背面から撮った面影塚。奥に見えるのが棚田地帯で、さらにその奥の山が鏡台山です。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。