155号・和歌に詠まれた純白の「さらしな」

 「さらしな」という言葉の響きが白色のイメージを喚起させることをシリーズ72、154などで紹介してきました。では、いつからどんな経緯でそうなったのか。幸いに古来「さらしな」をモチーフに詠まれた和歌がたくさん残っています。それらを読むと、「さらしな」の色が白になった背景も浮かび上がってきます。
 鎌倉時代に急増
 今号で大変参考になった本が「信濃古歌集」(平林富三著、郷土出版社)です。古代から江戸時代初期までに詠まれた信濃に関する和歌が網羅されています。信濃の中でも「さらしな・姨捨」が最も多く和歌の主題になっており、わが国最初の勅選和歌集、古今和歌集収載の「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月を見て(以下、慰めかねつ歌)」の触発力の大きさが実感できます(シリーズ31参照)。その中から白色を強調する歌を時代順に左に書き出しました(さらしな・姨捨の和歌は慰め系と、白色イメージ系、あこがれ系の大きく三つに分類できるのですが、慰め系とあこがれ系ついては後の号で紹介します)。
 大きな発見だったのが、左の一覧の一番右にある平兼盛の歌「更科のさむき山べのうの花はきえぬ雪かとあやまたれつつ」です。意味は、さらしなの里の山辺でたくさんの卯の花が咲いている、まだ解けずに残った雪にようにみえることだ―卯の花は初夏の風物として詠みこまれる花ですが、信濃に訪れる遅い春を、さらしなの里の白色のイメージと重ねた歌です。
 平兼盛の生年は不明、没年は990年。平安時代中期の歌人で、百人一首にも取られた「しのぶれど色にでにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」がよく知られています。その平兼盛が詠んだこのさらしなの和歌は、卯の花を雪に見立てた純白のイメージで、「信濃古歌集」によれば、さらしなに関する白色イメージ系の最初の歌です。
 平安時代後期に詠まれた「更科の山ぢに咲ける白菊の花もまばゆき秋の夜の月(藤原忠兼)」が次の白色イメージ系の和歌です。さらしなの里の山路に咲いた白菊に夜、月の光が当たって白菊が妖艶に輝いている様子を思い浮かべているようです。意図的にさらしなの里を白色に染め上げようとした技巧的な歌です。裏返せば、さらしなにはそれほど白色イメージがあったということです。
 もうひとつ発見がありました。鎌倉時代にさらしなを白色イメージでとらえる和歌が急増するのです。慰め系の和歌は時代を通じて詠まれるのですが、白色イメージ系は鎌倉初期から目立ちます。白い雪と月の光を互いに照らし合わせ、さらしなの里の純白さ、清澄さを強調する歌が多くなります。
 たとえば「更級の山のたかねに月さえて麓の雪は千里にぞしく(九条良経)」「雪白き四方の山辺を今朝見れば春の三吉野秋の更科(同)」、また「月ならぬ雪も有明の冬の空くもらば曇れ更級の里(後鳥羽上皇)」、さらに「月さえて夕霜こほるささの葉に霰降るなりさらしなの里(藤原家隆)」。
 さらしなの屏風絵?
 なぜ鎌倉初期に白色イメージ系の歌が増えたのか。京の都で当時、歌の第一人者だった藤原定家が影響しているのではないかと思います。そう考える根拠の一つは定家が作った「遥かなる月の都に契りありて秋の夜あかすさらしなの里」という歌です。月の都のさらしなの里、まだ訪ねたことはないけれど秋の夜、月を眺めているとさらしなの里と深い因縁を感じるというような意味だと思いますが、この「契り」という言葉に定家の強い思い入れを感じます。定家は晩年には「更級日記」を書写し、自分の日記「明月記」には更級にこだわる記述も残していることも根拠です(定家についてはシリーズ41参照)。
 百人一首の一人の詠み手に平兼盛を選んだのが定家ですから、定家は平兼盛の歌の中に「更科のさむき山べのうの花はきえぬ雪かとあやまたれつつ」があるのを知り、「さらしな・姨捨について詠んだこんな歌もある」とみんな披露したかもしれません。源氏と平氏の戦いをはじめ騒乱を経た後の時代が鎌倉初期ですから歌人の間では、より純白で清澄なイメージを歌の世界に求める機運が高まった可能性があります。さらしな・姨捨の和歌は慰め系が古今和歌集以降たくさん詠まれてきたので、「いっちょ平兼盛の歌を参考にさらしなを読み直してみないか」と持ちかけたでのはと想像を膨らませました。上の一覧の中央にある定家の歌「あらし吹く山の月かげ秋ながらよもさらしなの里の白雪」(一覧の中央)もそうした詠み直しかもしれません。
 さらしなを詠んだ平兼盛の歌には、どういう場で詠まれたのか紹介する詞書が添えられており、それによると、歌をもとに屏風絵が描かれていた可能性があります。定家の時代は平兼盛から約250年後なので屏風絵が残っていたとは思えないのですが、話として受け継がれていても不思議ではありません。当代きっての歌人が白色のさらしなの歌を詠めば、続く人たちは影響をうけたでしょう。鎌倉初期は「新古今和歌集」が編まれ「和歌の黄金時代」とも言われます。その時代を築いたのが定家をはじめ一覧に載せた歌の詠み手です。江戸時代になって誕生する白いそば「更科そば」も、さらしなを白色に見立てる美意識の延長上につくられた呼び名だと思います。
 以上を踏まえると、シリーズ3で紹介した佐良志奈神社の社標和歌「月のみか露霜しぐれ雪までにさらしさらせるさらしなの里」が単なる言葉遊びではないことがおわかりいただけるのではないでしょうか。右の写真は冬のさらしなの里。千曲川堤防から冠着山の麓を撮影したものです。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。