翠川泰弘さんのエッセーをアップしました

 さらしなの里の縄文時代についての講演会をお願いしていた翠川泰弘さんが農作業中の事故で、講演会は延期となりました。そのことをこのホームページでもお知らせしたところ、「翠川さんがさらしなの里の魅力を発見した恩人」と書いた部分について、お問い合わせをいただきました。ここに、翠川さんが以前に執筆したエッセーを掲載し、お問い合わせにも答えられればと思います。翠川さんは長野県旧長門町(現長和町)のお生まれで、さらしなの里歴史資料館の学芸員として赴任、里の住民や文化・歴史を新鮮な目で見ることができる立場でした。里では当たり前のことが実が価値があることを翠川さんが発見してくれたと言っていいと思います。

 「さらしなの里友の会」の総会を目前に控えた役員会が行われた会議でのこと。総会の議事内容についての協議が無事終わった直後、「役員は重箱ひとつ」と大谷秀志会長(2005年死去、現在の会長は豊城巌さん)が淡々と言った。そのひとことが役員のみなさんに聞こえたかどうかはよく分からなかったが、みなさんは足早に家路に向かった。
 重箱ひとつ
 「友の会」とは平成4年(1992)11月、さらしなの里歴史資料館の開館にあわせ地域住民の方々でつくったボランティア組織。年々充実してきた10月末の縄文まつりも「友の会」のみなさんの尽力のたまものなのだが、実は当初、資料館に赴任して間もない若造の私にはこのひとことの意味が分からなかった。
 この意味が分かったのは総会の当日であった。役員のみなさんがてんでに風呂敷包みを抱え、重箱を持って来たのである。もちろん、その重箱の中には、煮物や天ぷら、漬物、サラダなど役員のみなさんの家のご自慢の家庭料理が入っていたのである。なかには「主人から何も聞いていない」の一言とともに、あわてて自宅へ帰る一幕も。
 「重箱ひとつ」には、こんな意味があったのである。冷静に考えれば、そのとき理解できたのであろうけれど、あまりにも自然で当たり前に言われた一言であって、また役員のみなさんの反応もなかったので、私には理解できなかったのだと思う。おそらく、この地域ではこうした事が日常茶飯事のようになっていたからではないかと感じとれた。時は平成。まだ、こうした慣習があるとは思いもよらなかった。地域で来客をもてなす気風があたりまえのようにあり、個々人がそれを理解している。
 暮らしそのものの表現
 冠着山のふもとには扇状地が広がり、その台地上には冠着山の懐に抱かれたように大規模な縄文遺跡が展開している。遺跡は広大であるため、総括して幅田遺跡群と呼ばれ、これまで遺跡群内では幅田遺跡と円光房遺跡の二つの遺跡が発掘調査され、膨大な資料が見つかっている。なかでも出土した縄文土器には目を見張るものがある。
 縄文土器は、皮袋や編籠をデザインしたシンプルなものから次第に姿、形を変え、さまざまな造形を生み出した。炉に刺しても倒れない底のとがった尖底土器、食物などを盛り付ける浅鉢形土器、煮炊きを専門とする深鉢形土器、明かりを採るための香炉形土器など実にさまざまである。
 一方、これらの土器は使い方だけを気にした形のみが注視されたのではなく、さまざまな文様と一体になっている。文様は現代の家紋にも例えられるような洗練された安定感がある。縄文土器―それは力強く、優美であり、そして華麗であって、縄文人の人としての大きさを感じ、現代人の忘れてしまった何かを持っていて、現代人を魅了してやまない。土器は単なる造形ではなく、彼らの生活そのもの、彼ら自身が表現されているとさえ想像される。
 共同体と個人
 人として生き生きと生きている証、数々の風雨を乗り越えて帰結した伝統、そしてかれらの願いや祈り、こうしたものが封じ込められているのだろう。
 その背景には、地域の自然を熟知し、うまくつきあい、そして共同体と個人個人がほどよいバランスで機能していたことを想像させる。そのバランスは人と人が絶え間なく顔を合わせることから、情報や利益を共用することから始まり、それが伝統になっていったのではないだろうか。
 実は、このさらしなの里の人々にこの縄文土器を作り出した人々と同じ気風を感じる。生き生きと地域の中で生活を営み、個々人が尊重され、共同体がうまく働いている姿である。さらしなの里は共同体としての原点、縄文ワールドを持っている。そして縄文をキーワードにさらしなの里は動き出した。
 火種はできたが
 更級小学校の子どもたちと古代体験パーク内の復元住居を利用して、縄文人の生活を再現するため、住居に寝泊まりする体験をしていたときのことである。この日のスケジュールでは火起こし器で火を起こし、縄文食の食事を準備するときのことだ。
 時は晩秋。風が冷たく、日暮れも早くなったころ、子どもたちと夕食材料を準備し、復元住居の中で車座になり、火を起こし始めた。
 子どもたちはこの日以前に、少しは練習したことがあるのだが、いざ実践となるとなかなかうまくいかない。気はあせり、一生懸命がんばるのだけれど、いっこうに火はついてくれない。がんばって、がんばって火起こし器を回す。火種ができた。しかし、杉の皮になかなか着火しない。火種を起こすまでは実はあまり難しくはない。火種をつくってからが問題である。付け木の役目をするもぐさのように細かくした杉皮に、火種を落としそっと、細く長ーく吹く。
 すると、煙がだんだん大きくなり、煙が目に染みて痛いけれどがんばって吹き続ける。突然、ボッと炎が上がる。あわててその火を炉の中に移す。しかし、小枝にうまく火が移らない。せっかく着けた火が消えてしまった。
 そうこうしているうちに、一時間もの時間がすぎ、日はどっぷり暮れてしまい、寒さも一段と増してきた。子どもたちはおなかがへって、落ち着かなくなってきた。しかし、火はつかない。小学校の担当の先生も必死になってがんばる。先生も子どもたちも区別がつかない。寒さの中で汗をかきながら、みんな火を起こすことに必死である。時間がたつにつれ、湿度も高くなり条件は悪くなるばかり。火起こし器が冷たい。付け木の湿っているのが肌で感じるようになってしまった。
 泣き出す子、慰める子
 しかし、やっとの思いで、どうにかこうにか最後には火が着いた。子どもも先生もほっと一息。安心したようであった。小枝から薪へ順次、火を大きくしていった。だんだんとおき火も溜まり、体も暖まってきた。
 と、そのとき、住居の入り口から強風が吹き込み、炎が消えてしまった。
 するとどこからともなく、シクシクとすすり泣く声が聞こえた。そして、その声はだんだんと大きくなっていった。子どもの一人が泣き出したのである。自分たちで一生懸命になってつけた火が消えてしまったと思ったからである。周りのみんなが慰めても、いくら慰めてもなかなか泣き止まず、その子どもは一時間以上泣き続けた。 
 縄文遺跡から放たれたさらしなの里の光が子どもの心を動かした。この子はきっと生涯、この出来事を忘れることはないだろう。そして必ず、この里での体験を思い出すときが来るのではないだろうか。そのとき、縄文人が持っていた心、さらしなの里に育まれた心の扉を開けることだろう。
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 縄文まつりに使う木の実の採集に過日、参加できなかったからと言って、今日、クリとオニグルミがたくさん届いた。縄文の心は今も動いている。 (2001年執筆)

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