175号・神が宿る代(しろ)

更旅175・代・サムネイル

 Q 「さらしな」が都人のあこがれで至高の色である白のイメージであることは分かりました。俳人の松尾芭蕉も「さらしなの月」に大変あこがれたということですが、俳句というと「わび・さび」といった簡素なイメージがあり、極彩色のイメージがある都の文化となかなか重なりません。

  長野冬季オリンピックの開・閉会式の公式プログラムのデザインを作った原研哉さんの著書「白」(中央公論新社)を読み、「空白」という概念が、その理由を明らかにする一つのカギではないかと思うようになりました。さらしなにあこがれた都人と俳人は、「空白」に美を見る美意識を共有していると思うのです。
 何もない「空」の世界を色で表現するときに使われるのは「白色」です。白い紙や降り積もったばかりの雪を前にすると、そこに何かを描いたりしたくなりますが、それはそこがまだ何もない「空」の世界だからです。「空」と「白」はコインの表裏の関係なのです。
 そして、「空」と「白」双方が表現されているのが、神社だと思います。よく家の新築のときに、土地の真ん中あたりの四隅に杭を打ち、そこに縄を回して神官が祝詞をあげる儀式が営まれますが、原さんの著書によると、それが神社の原型だそうです。つまり、杭と縄で何もない空間をつくることで、そこに神が入る場を設けるのです。杭や縄に付ける紙(御幣)は真っ白です。ここにも「空」「と「白」が同時に、一緒に表現されています。
 原さんによると、その空間は「代」と呼ばれるそうで、「白」と同じ音です。語源的に一緒なのか違うのかはっきりしたことは分かりませんが、大変意味のある符合です(ちなみに、代の空間に屋根を被せたことから屋代となり、いまでも神社のことを親しみを込めて呼ぶときの「おやしろ」となります)。こう見てくると、神官の装束が白色であるのもうなづけます。
 神社に込められた精神性は、伊勢神宮(三重県伊勢市)に祖先をまつる天皇家に象徴されるように、都の人たちにも流れていました。それは現在でも、年始参りを欠かさない日本人に流れ続けていると思います。江戸後期から盛んになった俳句の世界に取りつかれた人も、同じ精神性を持っていたはずです。
 俳句という文芸の大きな特徴は省略です。言わない、書かないことによって「何もない『空』の世界」をあえて作りだしたとも言えます。神社の精神性を持っていますから、その「空」の世界には無意識のうちに「白色」を見ていたと思います。

 古代から中世にかけ都人の美意識によってすでに「さらしな」は、白色を強烈にイメージさせる地名になっていましたので、「さらしな」を訪れることが俳人たちの大きなあこがれになった可能性があります。
 伊勢神宮は2013年、20年に一度、社殿を改築する遷宮の儀式を営みました。写真は遷宮前、食物・穀物の神様をまつる下宮の境内。この何もない「空」の場所に、社殿が新しく造られ、神様を新たに迎えました。

 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。