冠着と一体だった縄文集落

 文と写真・千曲市三島の大橋静雄さん、さらしなの里友の会だより15号=2006年秋=から

大橋・図解samuneiru  冠着山の頂上に注連張石(しめはりいし、別名石尊大権現)という立石(たていし)がある。古来、霊石として冠着神社の祭典と一緒に奉祀されている。この立石と羽尾の幅田(はばた)遺跡から出土した縄文時代の遺構には密接なつながりがあると私は考えている。
 幅田遺跡は縄文時代中期の縄文人集落で、ここにも大きな立石がある。昭和三十八年(一九六三)の発掘で見つかった配石遺構の中にある高さ四十㌢、直径二十㌢ほどの棒状の自然石だ。
 配石遺構は一辺が二・四㍍の正確な正方形であり、全国でも珍しいとされるが、この遺構が冠着山の頂上にピタリと照準を合わせ、あの注連張石と対面している。つまりこの配石遺構は冠着山と一体となっているのだ。
 立石は墓場にあることが多い。縄文人は立石を男根石に見立て、立石から死者の霊を送り、再び現世に生まれ帰ると信じていた。男性器に秘められた旺盛な生成力により、邪霊の侵入を防ぐとも考えた。各集落の入口によく見かける道祖神の原形とも考えられる。
 縄文まつりが行われるさらしなの里古代体験パークの脇を流れる雄沢川の源流近くには、縄文時代中期初頭の採集拠点であった楪葉遺跡がある。そう、幅田遺跡のご先祖様が来たと考えられるところだ。彼らは雄沢川沿いなどにトチ、ドングリの木を植え、実を水にさらして灰汁を抜く技術を伝え、安定した食料の確保ができるようになっていったのだ。
 長野市七二会地区に見事なトチの木(樹齢千三百年、周囲一二㍍)がある。縄文時代にもこんな巨木が、ニョキニョキ育ち、たくさんの実が採れたのではないだろうか。トチの花からは蜂が蜜をたくさん取り出す。トチ餅につけて食すると、たまらなくおいしい。
 幅田遺跡の立石のそばには、埋められた甕があった。幼くして亡くなった子どもを埋葬し、この立石より信仰の山であった冠着山の嶺より死者の国へ英霊を送り、また再生を願った。やがて新しい生命がやどり、その赤ん坊の胎盤を甕に埋めて埋設した。村人たちはこの甕を踏めば踏むほど、丈夫な子どもに育つと信じ、「男根石」に祈った。こうした精神性がやがて立石を厄除け、五穀豊穣、子孫繁栄の神とし、道祖神にもなったのだろう。
 ところで、この配石遺構の中央に炉があり、その周りからは使い古し破損した土器や石鏃、凹み石、石皿、打製石斧、動物の骨、人骨などおびただしい物が出土している。床面は真っ赤な焼土となっており、明らかに祭祀遺構である。冠着山の恵みで生活の糧になったものを赤々と立ち上る炎に投げ込み、再生を願い山の神に贈ったのではないだろうか。いまの「どんどん焼き」の原形か。
 縄文時代は幅田遺跡の近くを千曲川が流れていた。小魚だけでなく秋は鮭、マスが捕れた。記録によると、明治二十四年に信濃川全域で一〇五〇㌧の漁獲高があった。最近までこんなに捕れたのだから縄文時代は雄沢川にも大群が…。想像しただけでワクワク。