147号・大地震で崩落した二つの子ども岩

  シリーズ146で冠着山の坊城平には、大岩を仏さんに見立てた「十三仏」という地名があり、大半の岩は真上にそびえる児抱岩の岩場から落ちたとみられ、その大岩の一つとして、とぐら公民館報の記事を紹介しました。その際に郷土史家の塚田哲男さん(故人)に「百畳敷岩」のことを教えてもらっていたと言及しましたが、すみません、説明が不十分でした。「さらしなの里友の会だより」14号に、詳しくお書きになっていたものがありました。
 逆縁の不憫
 児抱岩は親が子どもを抱くように巨岩が鎮座することから付けられた名前です。「百畳敷」と呼ばれる岩は、この子どもの部分の岩だったようで、江戸時代・弘化4年(1847)の善光寺地震で崩落したものだということです。明治の町村合併で誕生した初代更級村村長の塚田小右衛門さんは「抱きし児が抜け落ちて、坊城平の地中に突入せしが、また刎ね上がり、その場に現存す」と書き残していらっしゃるそうです。
 とぐら公民館報で「松代地震で落ちた」と紹介した大岩は、この百畳敷岩の下にあるものだそうです。更級人「風月の会」で探索した際に撮影していた下の写真がそれだと思われます。クジラが横たわっているような感じです。百畳敷岩よりは小ぶりですが、「崩落時は土煙が天に舞い上がりその跡は木も草もすべてなぎ倒され赤い地肌となり、その後数年はそのままの姿で回復しなかった」そうです。弘化期の崩落岩は、館報が「50畳」と見積もったこの岩より大きかったのですから、「百畳敷」という命名もあながち間違ってはいないでしょう。
 中央の写真は百畳敷岩の上から、アスレチック広場や宿泊施設がある坊城平の林を眺めている様子、奥が千曲川が流れる善光平です。生前の哲男さんに案内してもらったときは「昔はここに『百畳敷』と書いた立て札もあった」と聞いていたことを思い出しました。腐ってなくなってしまったようです。
 松代地震前の姿
 つまり子どもに相当する岩は江戸期と昭和の二つの大地震によって崩落し、現在は親が子を抱いているようにはなかなか見えなくなっているわけです。シリーズ146でも触れましたが、子どもの岩が先に落ちてしまったというのは、子に先立たれ、逆縁の立場にいる親のようにも見えてきて、不憫に思えました。子に餌をやる鳥の上半身のようなかわいらしさがあります。子どもを抱くように大事にしていた時代の児抱岩の姿をなんとか見たいと思い、昔の写真や絵を探しました。
 先に初代村長が「百畳敷岩」崩落の様子を文章で残していたと書きましたが、実は小右衛門さんは善光寺地震の翌年の生まれ。ですから、実見したわけではなく、親などから聞いていたのだと思います。残念ながら、子どもの岩が二つあったことをうかがわせる写真などは今のところ見つからないのですが、小右衛門さんが依頼して描かれた明治時代の二つの絵に松代地震前の姿を反映したものが残っています。
 明徳寺(千曲市羽尾、旧更級村)に所蔵されているものです。一つは掛軸の絵(写真左上、部分)で、もう一つは冠着山の銅版画(同写真右下)です。これを見ると、確かに親岩の右隣に子どもに相当する、とがった岩が見えます。下の現在の写真とくらべて見てください。現在は右側にとがった岩が見当たりません。
 修験者の砦として
 少し話は変わります。この児抱岩を舞台にした「子安地蔵の秘密」という戦国時代小説(右に表紙の写真、1994年発行)があります。進攻してくる武田信玄との戦いからなんとか生き延びようとする当地の武将の生き様が、夫婦、親子愛もからめながら感動的に描かれているのですが、児抱岩岩は武将に大きな力を与える修験者のの砦として描かれています。「風月の会」で探索してからこの本を本格的に読みました。そうあっても不思議ではない場所だと、うなずきながら読みました。
 著者は「しろみなみ」さん。これは筆名で、千曲市上山田地区(旧更級郡上山田町)にお住まいの方だそうです。本は千曲市の更埴図書館などで閲覧・貸出をしています。
 なお風月の会の探索メンバーである信州大学名誉教授(専門は地震学)で明徳寺住職の塚原弘昭さんは、坊城平に大岩が散在する理由について①豪雨が原因の土石流②地滑り③崖崩れ―の3つの現象が考えられると言います。ただ、①だとすれば、大きな石だけでなく小さな石も多数あるはずで、②だとすると大きな石はそんなに多くないはずだそうです。③の崖崩れだと、崖から遠く離れたところに、大きな石だけが転がってくることはよく理解できると言います。供給場所は冠着山の頂上付近の岩場で、③が有力で、たくさんの石を同時期に供給するには、地震が最も大きな契機になったと分析。十三仏信仰の成立は、科学的にも裏付けられそうです。

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