34号・冠着山が姨捨山でもある訳(下)

 雨がしずくになって空から落ちるには水分が集まるその核が必要なように、当地が姨捨説話のメッカとなっていく上で核になったものは何か。さらしなの里歴史資料館の説を構築した森嶋稔先生は、それを今から約1200年余り前の797年に編纂された「続日本紀」記載の次のエピソードだと、お考えだったようです。

 名誉な記事

    信濃国更級郡人建部大垣 為人恭順、事親有孝

        神護景雲二年(七六八)五月辛末の項

 続日本紀は朝廷に関係した歴史を今で言えば年表のように時代順に記したもので、768年の歴史的な事実として「信濃国更級郡の人建部大垣は、その人となりは恭順であって、親に仕えて孝行であった」と記しているのです。そしてその後に、孝行ぶりを讃え、税金を免除したという記述が続いています 。

 この記事が盛り込まれた年代が重要です。768年=8世紀です。年表をご覧ください。棄老国縁に続く日本側の更級に関係する歴史的な文字資料としては最古、つまり最初のものと思われます。  天皇家の公文書に更級の親孝行者のことが紹介されている。当地の人にとっては名誉なことだったでしょう。森嶋先生は論文「姨捨山の周辺」の中で、この更級の里に昔、親孝行な息子があって、お上からとてもほめられたことがあったという記述は「更級郡の人々に多年伝承されるにふさわしい事件ではなかったか」と推測しています。その上で「それは姨捨説話を生み出す土壌であったと考えて間違いない。きっと月と親孝行な息子と仏教的世界観とが三重うつしの影絵のようになって、この説話がこの地に根づいたのではないだろうか」と分析しています。

 なるほど、仏教の教えが広まり始めたころに、親孝行の息子がいる地として天皇家からほめられた。そして旅の途上では、美しい月にお目にかかれる―姨捨伝説のメッカに、ここが選ばれるわけがかなり煮詰まってきました。もう一息です。

 オハツセと墓所思想

 古代に更級郡(さらしなごおり)と呼ばれていた地域は広くあります。したがって山もたくさんあります。その中でなぜ冠着山だけが姨捨山と呼ばれるようになったのか。そもそも「朝廷からほめられた孝行息子がいる」という、いくら名誉な記事があるとはいえ、地元の人間が毎日、目の前にして親しんでいる山に「姨捨山」などと縁起の悪い呼び名をつけるでしょうか。

 ここで「オハツセ」という言葉が謎解きの最後のキーワードになります。言葉の歴史的な意味合いの変化を調べてきた研究者によると、「オハツセ」には墓所思想が含まれているそうです。分かりやすくいうと、オハツセには死者を葬るところという意味があるということです。このオハツセが姨捨に転化したという説があるのです。確かに塩崎地区(旧更級郡塩崎村、現長野市)には、長谷寺(はせでら)という古刹があります。だからなのでしょうか。このお寺の後背地にあたる山がはるか昔は「オハツセ山」と呼ばれていたとも言われています。いや、オハツセ山の呼び名が先にあって、長谷寺が後に建立されたと考えることもできます。また、この辺りには、シリーズ前回33号で触れた東山道の支道沿いで旅人が往来していました。

 名づけ親は旅人

 とすると、この山が「姨捨山」と呼ばれていいのかもしれませんが、この山は登るのにさほど大変ではないようです。身近な山ではなかったでしょうか。一方、長谷寺から少し離れていますが、威容を呈す冠着山。ふだんの生活を離れ、自分なりの物語をつくりたい気持ちに駆られる旅人にとっては、冠着山を姨捨山と呼ぶ方が気分的にぴったりきたのではないでしょうか。

 左の写真は荒井君江さんが長谷寺の背後にある猪平地区から冠着山を撮影したものです。遠くから見ると、冠着山の山頂、山腹、そしてその麓に、別世界を想像しても不思議ではないのでしょうか。荒井さんは塩崎のお生まれで、幼少のころはお母さんから「あの山のてっぺんには神さんがおいんなさる」と教えられていたそうです。

 また、旅人は地元の人間より遠方から冠着山を見るチャンスにずっと恵まれていたはずです。やはり、姨捨山の名づけ親は古代の旅人と考えた方が腑に落ちます。旅での見聞や知人友人のみやげ話にロマンを感じた今で言う作家たちが「大和物語」や「更級日記」「今昔物語集」を書いたと言っていいのではないでしょうか。

 情報の道

 実は、森嶋先生が66歳で亡くなる直前に書いた別の論文「をばつせ山」(さらしなの里歴史資料館の紀要第一号)の末尾にある東山道についての次の記述が冠着が姨捨山の別名を持つなぞを解く一番のヒントでした。

 ―越後国への東山道の支道が(さらしなの里を)通過しているのは、姨捨伝説が成立し、流布するのに大きな貢献をしたものと受け取れる。情報の伝達は、知識人である貴人や官人の往来にあやかっていたと認めるべきである。もしそこに官道がなかったら、八世紀後半という早い時期に語られようはずがなかったように思われる―

 東山道はいわゆる「情報の道」でもあったのです。

 2回にわたって書いてきたことを要約、総括してみます。仏教的世界観に観月の名所、親孝行息子の実在。また、死者を葬る場所「オハツセ」の近在、さらに冠着山の威容。そして、それらを融合し、和歌や物語集といった文学に昇華させる回路としての東山道の支道。これだけの条件がそろえば、冠着山を姨捨山と呼ばないではいられなかったでしょう。

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