37号・子どもを熱くさせた郷土学習

  更級小学校の児童が作ったカルタを、芝原地区にお住まいの市川はつのさんが持ってきてくださいました。読み札と絵札がそれぞれあり、ハガキを一回り大きくした紙の箱(写真下右)にきれいに入っています。中には制作の経緯について、子どもたちと先生がつづった文章も添えられていました。
 明治の偉人
 作ったのは平成4年度(1992年度)に四年二組に在籍した子どもたち。社会科の単元「郷土を開く」で、地域の歴史を調べ、その成果をカルタにしたのだそうです。テーマは江戸時代末から大正時代にかけ、旧更級村の暮らしの改善に貢献した人や事を四つ設定しています。「明治新道」「大正橋」「ため池」「坂田寅治郎」です。
 明治新道とは佐良志奈神社(若宮地区)からがけを横目に上山田地区へ千曲川沿いを走る道と、三島地区から冠着山に向かって羽尾地区にのびる道のことです。前者の道は、それまでは八王子山の万治峠越えでしか両地域を行き来できなかったため、芝原の中村林左衛門さんが発起人となって多くの人から寄付金を集め、明治11年(1878)に開通しました。後者の道は、冠着トンネルを抜く資材の運搬道路としてつくられました。トンネル完成後、用地であった畑を地権者に返す予定でしたが、初代更級村村長の塚田小右衛門さんが村民の生活道路としてそのまま買い上げるのに尽力しました。
 大正橋は、それまでは渡し舟による往来で不便だったので、大正3年(1914)に木橋としてつくられ、昭和6年(1931)にはドイツ人の設計でコンクリート橋に架け替えられました。更級郡と埴科郡をつなぐので二郡橋とも呼ばれました。
 ため池は、斜面が多く水利が悪い村内の地区のために森忠左衛門さんらが作りました。坂田寅治郎さんは三島地区の生まれで、農産物の収穫量を確実に増やすために、馬耕や陸苗代などの合理的な農法を考案、地域内外に広めた方です。
 担任の宮坂岩子先生の文章の中に「原版はカラーですが、予算の関係で白黒になりました」というくだりがありました。カラー原版の所在を知りたくて宮坂先生に電話を差し上げたところ、宮坂先生がお持ちだとのこと。お訪ねして見せていただきながら、制作の狙いなどについてお話をうかがいました。(宮坂先生は2002年に定年退職なさっています)
 勝手に動き出す
 宮坂先生がカルタを作ることにした背景には、前任の上山田小学校で、長野県考古学会長も務められた故森嶋稔先生と地域の歴史を調べたときの楽しさがあったそうです。宮坂さんは「お地蔵さん」をテーマに休日には、お子さんと一緒にカメラをぶらさげながら歩き回って調べました。その面白さをかかえて、更級小学校に転任。仙石地区の小松公雄さんのお宅の協力を得て、子どもたちとまず、りんご栽培に取り組みました。5、6人で木を1本借り、農協にも手伝ってもらい出荷販売までやりました。その経験から「更級の人はとても温かく子どもたちに優しい」と感じ、次のクラスを受け持ったとき、地域の力を借りて郷土学習をすることを決めました。ただ、その段階ではカルタにすることを決めていたわけではありませんでした。
 テーマは森嶋さんや郷土史家の塚田哲男さんにお話を聞く中で、地域住民の暮らしの向上に大きく貢献した「交通」と「農業」に絞り、具体的な素材として「明治新道」など四つを調べることにしたそうです。驚いたのは、「子どもたちが勝手に自分で調べていった」ということでした。
 子ども向けに書かれた資料はあまりありませんから、学校が休みの日にはあらかじめ約束することもなく森嶋さんや塚田さん、さらに中村林左衛門さんのご子孫のお宅などを訪ねました。いきなりの訪問ですから、必ずしも応対できるわけではありません。子どもたちはそれでも、めげることなく繰り返し訪ねたそうです。
 そして運動会が終わった2学期後半、調べたことをどんな形にまとめようかと考えたとき宮坂先生はカルタを提案しました。「1冊の文集もいいけど、大事な思いはカルタにした方が残るのでは」と宮坂先生。以前に、印刷会社からもらっていた厚手の紙がたくさんあったので、それを使うことにしました。
 そのときに子どもたちがクレヨンで描いたものが左の写真です。1枚の大きさはB5判と大判です。たくさん調べたことを俳句のような五七調にまとめ、それを一枚の絵に描くというのは大変な作業ですが、これら色彩豊かで躍動感のある図柄を見ると、子どもたちが郷土学習に注いだ情熱のほどがうかがえます。(読み札と絵札それぞれに、作者である子どもたちの一字署名が記されています) 
 これが本物の学習
 本当はカラー印刷にしたかったのですが、予算がないので白黒にすることにしました。それでも印刷費はかかるので、宮坂さんは地域の人たちに買ってもらって、それを印刷費に当てることを提案。子どもたちはできあがったものを手にして、知り合いの大人だけでなく畑仕事をしている人にも営業活動をしたそうです。カルタの存在を教えてくださった市川さんは、4年2組のお子さんを持つ知り合いの方から一セット分けてもらったのだそうです。
 宮坂先生はどのくらいの費用がかかって、いくらで売ったのか今はもう覚えていないということです。印刷してもらった紙を裁断したりホチキスで箱にしたりする作業を、PTAの役員さんにも来てもらい子どもたちと一緒にやりました。
 完成品を送った森嶋先生から宮坂先生は次のような手紙をいただいたそうです。
 ―これがほんものの学習です。先生は水先案内人。ただ、知っているだけでもだめですし、パワーだけでもだめですね。知らないところから出発する。一緒に出発する。子供達と。だが、行き先を間違ってはいけないと思うのです。素敵な仕事でしたね。ありがとうございました―
 宮坂先生のお話でもう一つ印象に残ったのは、「更級小学校では何をやっても地域の人が協力してくれるという確信がカルタづくりを支えてくれた」という言葉でした。1992年の4年生は当時10歳。以来、20年以上、既に立派な大人です。

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