51号・更級村で月見した「鉄道唱歌」作者

  さらしなの観月のスポットとしては長楽寺(旧更級郡八幡村、現千曲市八幡地区)がよく知られていますが、もう一つ羽尾地区(旧更級村、現千曲市 )の観月殿があります。ここを舞台にした歴史にも、昔の人たちが寄せた「さらしな」への思いが見て取れます。
 観月殿があるのは、JR姨捨駅から戸倉上山田温泉側に下る途中にある郷嶺山の頂上です。山とは言っても大きな盛り土のような地形で石段がついており、徒歩で数分で登ることができます。更級村初代村長の塚田小右衛門(雅丈)さんが明治24年(1891)、建設しました。羽尾地区にある明徳寺に当時の郷嶺山を写した写真が残っています。ちょっと分かりづらいのですが、山のてっぺんの中央、屋根が見える建物です。周辺には今のように木もあまりないので、ここからは里の全景、千曲川、対岸の埴科郡の村々、山々が今よりも一望にできたロケーションだっと思います。
 明治の国の市町村合併政策で「更級村」が誕生したのが明治22年。小右衛門さんは更級村を世の中の人たちに知ってもらおうと、ここを舞台に数々の取り組みをしました。記録に残るもので、当時の人たちの更級への思い入れをうかがわせるのが、大和田建樹の紀行文です。矢羽勝幸さんの著書「姨捨山の文学」の中に盛り込まれています。  大和田建樹は「汽笛一声新橋を…」で始まる鉄道唱歌を作詞したことで有名な国文学者です。当地の教育関係者が明治29年、講演に招き、その際、冠着山にも登りました。「九月十九日」といいますから、中秋の名月にあわせたものと思われます。
 そのときに大和田がしたためた紀行文の中に郷嶺山での観月も盛り込まれているのですが、大和田はまず冠着山に上山田地区(旧更級郡上山田村)側から登りました。お昼を山頂で食べた後、更級村側に下りました。そのとき、あらかじめ約束をしてあった小右衛門さんの家に立ち寄りました。そして小右衛門さんが家から歩いて20分ほどの郷嶺山の観月殿に案内しました。そのときの様子を記した紀行文の一部分です。
 観月殿は村の北に離れて更に小高き岡の上にあり。遠近の里人群集し来たりテて、岩の上、草の原また人を入る地を余さず。こなたに瓢を中にして年の豊凶を談ずるあれば、かなたに重箱を囲みて発句を短冊に書くもあり。中々の賑ひ里祭の夜宮などにも比すべし。余が一行は案内せられて殿の東面に座を占むれば、塚田氏よりは人かわるがわる酒肴などを送り来て厚くもてなさる。月のみにても類ひなき御馳走なるを。
 中秋の名月なので、郷嶺山一帯に座る場所がないくらいに人が集まっていたのです。小右衛門さんのお宅が造り酒屋でもありましたので、もてなす酒は同酒蔵の銘柄「月の井」だったでしょう。大和田はたくさんの酒と肴を持ってきてくれる小右衛門さんに「月だけで十分のごちそうなのに」と恐縮しています。  さらに月が鏡台山から顔を出したときの様子です。
 残照は全くかなたの峯を辞して、見わたす遠近、山も里も田も畑も、夕暮れの色もて静におほわれゆく。はや間もあらじと人々のいふに、目を注げば、山際少しあからみて、いはゆる鏡台山の位置を示せり。ああ我、年来の望を果たすも数秒の中にせまりぬ。(中略)拍手喝采の声の中に金杯の如き月を浮かび出でたり。然れども下界は未だ之を知らず。夜色天地を襲ひ尽くして、始めて霜のごとき光を反し、龍の如き影を描く。あわれ峯にて昼見し暗射図。いまは、いずくぞ、金地一面の紙に薄墨もて隈どらるるは坂城か埴生か屋代町か。灯火ところどころに霞み残りて蛍よりも小さし。
 鏡台山の山際があからんできたのを見て大和田が「ああ我、年来の望を果たすも数秒の中にせまりぬ」と書いた部分に、その感激のほどがよくうかがえます。そして山の端から昇る月、そして月影が覆った里の風情など、実見したことが国文学者ならではの表現で紹介されています。  大和田は郷嶺山で一緒に観月をする約束をしていた信州の友人とともに楽しんだ後、小右衛門さんの家に戻り、一泊しました。そのときに大和田が詠んだ歌が残っています。
  冠着のふもとの里に旅寝して まれなる秋の月を見しかな
  今よりは人にほこらんいにしへの月のみやこの月をみつれば
 更級で月を楽しむことが、いかに当時の国文学者のあこがれであったかをうかがわせる歌です。「冠着のふもとの―」の歌を大和田が書にした掛軸が明徳寺に保管されています。一宿一飯の恩義で大和田がしたためたと思われます。
  郷嶺山には文学関係の人がかかわった証の句歌碑がいくつもあります。観月殿の建設に一緒に取り組んだ石川県の歌人大島浮名もその一人です。  大島は21歳で脱藩して諸国を流浪し、61歳のとき羽尾にやってきたそうです。剣道、和歌、押花を当地の人に教えました。文人でもあったので小右衛門さんの力になり、当地を世に知らしめる役割を担いました。「志づ」という奥さんと一緒に観月殿に住んでいました。大正元年に亡くなりました。その偉業を顕彰するため小右衛門さんが夫妻の和歌を刻んだ石碑を郷嶺山に建立しました。
  いにしへの月の都を人とはば雲井にちかき姨捨の山(大島浮名)
  世の塵を払いつくして清かなるさらしな山の月にならはむ(志づ)
 小右衛門さんが建てた観月殿は古くなって新築されました。右の写真の奥の建物で、明治のころにはまだ幼木であった観月殿の前の赤松が見事な大樹となっています。手前の碑は、戸倉町俳壇誌「青嵐」選者で東京都俳句連盟常任顧問の「春人」さんという方の句碑です。
  姨捨にのしかかりたり大銀河
 なんとも大きなスケールの句です。  郷嶺山の頂上には昭和36年(1961)、孝子観音が地元内外の更級村関係者を中心に建立されました。今は手打ちそばも食べられる「さらしなの里展望館」も建設されています。更級・姨捨への思いが凝縮された一つの聖地です。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。