52号・更級村を世に紹介した銅版画

 「更級村」という村名を誕生させるのに大きなリーダーシップを発揮したのが塚田小右衛門(雅丈)さんであることについては、シリーズ13号で触れました。羽尾、須坂、若宮の旧三村をまったく新しい名前に変えることにしたわけですから、相当な異議もあったのですが、結果的にそれは的を射た決断でした。小右衛門さんの考えは一時の思いつきではなく、改名後もその名前を世間に知らしめようと生涯をかけています。そのことを示す銅版画があります。
 西行も来た?
 下の写真です。冠着山(姨捨山)を中心に、両翼に広がる村域を一望する構図です。左翼には更級神社(佐良志奈神社)、右翼には三島神社。冠着山頂には「姨捨山鎮座冠着宮」、山腹に久露滝、大滝社、さらに郷嶺山の観月殿、手前には千曲川…。冠着山の左には月が昇り、月影に照らされた里の姿です。今に残る当地の神社仏閣、名所が網羅されています。左下には小右衛門さんが営んでいた酒造蔵を描いた本宅の様子が描かれています。  そして右上には「信濃国更級郡更級村」と書かれ、西行、鎌倉右大臣、佐久間象山の和歌が記されています。
 信濃なる富士とやいはむ冠着の峯に一夜は月をみんとぞ(西行)
 月見ればころも手寒しさらしなや姨捨山のみねの秋風(鎌倉右大臣)
 わがくにの冠着山に見る月はカルホルニアのあけぼのの空(佐久間象山)
 この中で特に西行に冠着山を取り込んだ歌があるということを知り驚きました。西行は平安時代後期のもともとは武士でしたが、出家して旅や月、花を愛した歌人として、松尾芭蕉をはじめ後世の文人に影響を大きな与え続けた人です。ただ、西行が当地に本当に来たかどうかは定かではありません。鎌倉右大臣とは鎌倉幕府を開いた源頼朝の息子で、第三代将軍となった源実朝のことです。佐久間象山は、米国のペリー来航に際しては横浜開港を主張するなど世界の地理や情勢にも通じていた松代藩士です。
 古今の歌の名手が更級に関係した風物を詠んだ歌を列挙して、更級村にちなんだ歴史的な由緒を表明していると言っていいでしょう。
 新村名誕生前から
 この銅版画がつくられたのは明治27年、東京の「東京精工社」が制作元です。更級村が誕生したのがその五年前の明治22年。雅丈さんの残した記録によると、制作を発注したのが、さらにその2年前です。つまり更級村が誕生する前から、さまざまに骨を折っていたのです。
 銅版画はエッチングとも呼ばれる版画手法の一つ。木版画と同じように絵を描いた紙を銅板に貼り付け、線の部分に小刀で刻みを入れます。そこにインクを流し込み、上に紙を載せプレス機で強烈な圧力を加えて紙にインクをくっつけます。木版画は手ですります。銅版は細密な部分を描けるのが特徴です。明治に入ると、庶民の旅がより自由になりました。生まれ育った地の由緒を世の中に知ってもらいたい人、それを知りたい他地の人もたくさんいたはずです。木版画では表現できなかった細部もリアルに表現できるので歓迎されたと思われます。
 実景に忠実
 それにしても実景にとても忠実なのには驚きます。一つ一つの棚田、松や杉の葉っぱ…夜月に照らされる里なので光と影のコントラストまで描こうとしています。描いた人は雅丈さんの家に寝泊りしていたのでしょうか。千曲川を挟んでちょうど反対側の宮坂峠あたりからみた構図になっています。
 明徳寺(旧更級村羽尾、現千曲市)には、この画のもとになる銅版を入れて制作元から送ってきた木箱も残っています。右の写真をご覧ください。「信濃国更級郡更級村・塚田小右衛門殿」と墨書きされたものが箱のふたで、その上に開かれているのが、全国各地の名所を銅版画にしたものを本にまとめて綴じこんだ「日本博覧図」です。更級村の部分のページが開かれています。縦22㌢、横52㌢、A4サイズの紙を横長に2枚つなげた大きさです。
 銅版画のタイトルは「観月之勝地姨捨山心真景」。当時は「姨捨山」と言えば、長楽寺(旧更級郡八幡村、現千曲市八幡地区)近辺が一般的にそう認識されていたので、古来歌に詠まれてきた姨捨山は冠着山であることを世間に知らしめる狙いもありました。
 半径2百㍍以内に
 更級村は昭和30年(1955)、周辺の町村と合併し、村名はなくなります。明治22年以来、66年の歴史でした。そして更級郡所属の最後の村、大岡村が2005年に長野市と合併し、更級郡も消滅しました。とても残念なのですが、小右衛門さんの偉業が今も息づいていることを気づかせてくれたのが、更級駐在所の青木修吉さんが警察官の機関誌にお書きになった文章の次の一説です。
 最後まで更級郡として踏みとどまった大岡村から見ると、私の勤務している更級駐在所はだいぶ離れた場所にあります。この場所には駐在所のほかに更級小学校、更級保育園、更級郵便局、JA更級支所などが半径二百メートル以内にかたまり、そこに「更級」という正式な自治体が存在しているかのようです。長野県で一番残しておきたい郡名(私の主観です)が一番最初に無くなってしまう。その現実に耐えられない人々がこの地に独立国を宣言し、歴史の流れに抗っている。そんな構図を想像していまい、私もこの地区にますますの愛着を感じ、仕事のやりがいにもつながっています。
 これを読んで思ったのは、更級村が歴史上、存在しなかったら、目に見え、口の端にものぼる更級の証はなくなっていたかもしれないということです。駐在所に勤務する警察官は転勤する方々です。外の目でなくては気づけない視点です。(銅版画の写真は、佐良志奈神社社務所に掲げられているものを複写しました)

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