75号・「さらしな」で癒された宗良親王

 歴史上、信濃の国と深い縁のある皇族は宗良親王です。同親王は、鎌倉幕府の滅亡後、天皇家が二つに分かれた今から700年余り前の南北朝時代、吉野山 (現在の奈良県吉野町)に南朝を開いた後醍醐天皇の子どもの一人です。南朝とは、北の京の都の伝統的な王朝に対して、吉野が南の方角にあることから名づけられました。宗良親王は南朝への支持勢力を広めるため現在の長野県伊那地方を拠点に中部、東海、関東などに出陣し、その際に「さらしなの里」にも滞在したことがありました。
 都への郷愁
 彼は歌詠みの名手でもあり、彼の和歌を読むと、さらしなが「癒しの里」であったことが分かってきます。宗良親王は晩年にいくつか和歌集を編むのですが、載っている彼の歌は昔、動乱の中で書きとめていたものが多いと思います。その中でふるさとの吉野や京の都から遠く離れた身になったことを嘆いた歌の一つに次のものがあります。
  更科の月みてだにも我はただ都の秋の空ぞ恋しき
 さらしなの里の月をようやく見ることができたが、わたしは都のことが恋しくて心を慰めようがない―彼はやっぱり都が大好きだったのです。それなのに遠方に派遣され、つらかったのです。しかし、彼は古代から都の歌詠み人のあこがれの地であったさらしなに実際に来て、月をたっぷり味わうことができて、実は癒されたことを歌っているように思います。
 そもそも南北朝という二つの王朝が生まれたのは、日本の歴史上初めての武家政権である鎌倉幕府が天皇の皇位継承順にまで介入するようになったことなどへの反発から後醍醐天皇が、平安時代までのように天皇が中心となって国を治める親政を復活させようとしたためです。同天皇はいったんは天皇を退位させられますが、鎌倉幕府打倒の画策に成功すると、「建武の新政」と呼ばれる統治政府を打ち立てます。しかし、不公平な恩賞などで武士の不満が大きくなり、数年後には吉野山に脱出し、武士が操る北の京の天皇家に対して南の吉野にもう一つの王朝を開いたのでした。
 宗良親王は父親である後醍醐天皇が皇太子時代の1311年の生まれですから、京の都の空も当然眺めていたでしょう。「更科の月みてだにも我はただ都の秋の空ぞ恋しき」の歌にある「都」には、京と吉野両方が含まれていると思うと、歌の奥行きはさらに膨らみます。
 都への郷愁を、さらしなの地で掻き立てられたことをうかがわせる別の歌に次のものがあります。
   これにます都の苞(つと)はなきものをいざといはばや姨捨の月
 苞というのは、みやげを意味する古語ですから、歌の意味は、都へのみやげには姨捨での月見をした話よりいいものはないということになります。これは南朝の多くの歌人たちの作品を盛り込んだ新葉和歌集収載の歌です。この歌には、親王が昔、姨捨山の麓に住んでいたころ、夜遅くまで月を見て思ったことを詠んだ歌だという前書きが添えられています。当地での観月体験の喜びを感じさせます。
 嘆きを歌劇に
 これら二つの歌から宗良親王は、さらしなでの月見を堪能したことがうかがえます。さらしなを詠みこんだ古人の歌はいくつもありますが、宗良親王の歌には、実際に足を運び、からだで月を味わえた実感がこもっています。彼が詠んだほかのさらしな歌をいくつか列挙します。
  身の行方なぐさめかねし心には姨捨山の月もうかりき
  この里に旅寝しつべし更科や を都の同じ空とて
  なぐさまぬ心なればや更科の 月見る里も住みうかるらむ
  諸共(もろとも)に姨捨山を越えぬとは都に語れさらしなの月
 京の都の貴族たちが「さらしな」について詠んだ多くの歌が、想像の世界でしか詠んでいないのに対し、彼は現場を踏んだわけです。彼の歌にはリアルさを感じます。彼は嘆いてばかりではないかという感じを受けるかもしれませんが、彼はその嘆きを歌に表現することによって、元気を得ていたと思います。それが歌の力です。
 自分の嘆きを歌によって一つの物語にできると、癒されるのです。嘆きが歌劇に昇華しました。彼は次の仕事に勇気をもって臨むことができたかもしれません。体の傷とともに心の傷も癒されました。桜と月見の名所としてあまねく世に知られた「花の吉野」と「月の更科」の空気に全身でひたることができたまれな人です。
 佳客は誰?
 さらしなの里の宗良親王を考えるとき、どうしてもその関係を考えたくなるのが、姨捨山の麓に住んでいたお坊さんの成俊僧都のことです。成俊は万葉集の寛永版の奥書に名前のある人です。寛永版とは、江戸時代の寛永20年(1644)に版木で刷った版本で出回った万葉集のこと。奥書というのは筆で書き写した際に、写した人間が書写にまつわるエピソードなどを後代への参考情報として添えたものです。
 漢字だけで書かれていた万葉集の歌の読み方や解釈に多大な貢献をした鎌倉時代の高僧、仙覚がしたためた奥書の後に成俊が、さらに自分の奥書を添えていることから、仙覚が残した歌の読み方などに関する宿題に、答えを加えた人だと解釈できます。  成俊はその奥書の中で、姨捨山のふもとに住んでいる自分のもとに、「佳客」が訪ねて来て、書写した万葉集をプレゼントしてくれた、それによって万葉集をさらに読みやすくすることができたという趣旨のことを書いているのです。
 佳客の名前は具体的に記していませんが、奥書を書いたのは1353年。宗良親王は40歳ぐらいで伊那地方を拠点に活動していたころなので、佳客は宗良親王であっても不思議ではありません。具体名を記さなかったのは、宗良親王の立ち寄り先などが敵の北朝側勢力に知られて迷惑をかけてはいけないという配慮が成俊にあったかもしれません。
 奥書の中で成俊はまた、動乱を逃れて京の都から姨捨山のふもとにやってきたという趣旨のことを書いています。彼もまた宗良親王と同じように癒しを求めてさらしなにやってきた可能性があります。
  宗良親王の滞在先の一つとして「さらしなの里」、成俊が住んだところとして「姨捨山の麓」と書いてきまましたが、具体的な場所が特定されているわけではありません。ただ、姨捨山と認識されていた冠着山を仰ぎ見れるところであることは間違いないと思います。当地(旧更科村、現千曲市更級地区)もその有力な候補です(成俊の住まいについてはシリーズ6で触れています)。
 月の文化の復興を目指す更級人「風月の会」が昨秋発足しましたが、会合で歌ってもらえればと思い、南朝の拠点の吉野と同じ地籍名が当地にもあることや宗良親王、さらに成俊僧都のことを盛り込んだ「よしののぼり」という詞を作りました。曲は芝原地区にお住まいの中村洋一さんが付けてくださいました(同会のもう一つの歌「さらしなの里ここにあり」についてはシリーズ61で紹介しています)。
 やや余談ですが、当地の縄文まつり第15回を記念してつくった本「里と人にいやされる『さらしな』」のタイトルも、やはり根拠のあることでした。  左の写真は吉野山の吉水神社に伝わる宗良親王直筆の書。平安時代後期に編まれた勅撰和歌集の一つ後拾遺和歌集を同親王が筆で書き写した巻紙です。成俊僧都にもこのような巻紙を手渡したのでしょうか。右の写真は後醍醐天皇が南朝を起こした吉野山の拠点の跡です。いずれも私が撮影しました。
 なお、60年近くにわたって続いた南北朝時代は1392年、南朝側が敗北する格好で北朝に合一し、北朝についていた武家の足利義満による室町幕府が日本の唯一正統な政府となります。宗良親王の死亡年は不明ですが、合一より少し前、京でも吉野でもなく、出陣先の東国の地だったと考えられています。

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