86号・俳句へ産みの苦しみ抱え正岡子規

 松尾芭蕉の時代はまだ「俳句」という言葉はありません。「俳諧」でした。「諧」という漢字は「諧謔」と使われるように俳諧は笑いを基本にしたものだったそうです。「俳句」という言葉を作ったのは、明治時代を生きた正岡子規(1867〜1902年、中央の写真)。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」でおなじみの人です。子規は芭蕉が五・七・五のリズムで切り開いた新しい詩の世界を強調するために「俳句」という言葉を使いました。
 学生時代の一人旅
 その子規も芭蕉が「さらしな・姨捨」の月を見るためにたどった更科紀行街道(善光寺街道)を歩いたことがあります。約120年前の明治24年(1891)6月、子規が25歳のとき、大学生だったころです。
 上野駅から群馬県・横川駅まで汽車に乗りました。横川からは馬車鉄道に乗り換えて軽井沢に。当時はまだ碓氷峠を穿つ鉄道用のトンネルは出来ていませんでした。軽井沢からは再び汽車で長野に。善光寺を参拝した後、篠ノ井まで戻り、そこから徒歩で善光寺街道を南に向ってたどります。鉄道の篠ノ井線が開通するのは約十年後の明治36年ですから、歩くしかありませんでした。
 芭蕉は善光寺街道を北に向かって歩きました。芭蕉の道とルートが反対なのは、子規が生まれ育った故郷の愛媛県松山に帰省するときの旅だったからです。東海道や中山道を使う方が距離的には近いのですが、あえて足を伸ばしたわけです。子規はのちにこのときの長野県木曽地方までの旅程を「かけはしの記」という紀行文にまとめます。その中に当時の稲荷山から猿ヶ馬場峠を越えて善光寺街道の起点である洗馬宿(長野県塩尻市)に至るまでの記述もあります。盛り込まれた和歌と俳句をもとに猿ヶ馬場峠と並ぶ難所と言われた立峠までの旅路を再現してみます。
 北アルプスも眺めながら
 6月はちょうど梅雨の時期。子規が稲荷山宿の辺りで夕方、雨に降られて呼んだ歌です。
  日は暮れぬ雨は降りきぬ旅衣袂かたしきいづくにか寝ん
 「かたしき」というのは自分の衣服を土の上に敷いて一人さびしく寝る意味です。泊まる旅籠を探しているときの歌でしょうか。それとも学生なのでお金がなく野宿をしたのでしょうか。これから山に入って本格的に始まる旅への不安を感じている気持ちをうかがわせる歌です。
 翌日は晴れましたが、中原から猿ケ馬場峠までの道は急坂でさらにぬかるんでいて大変だったかもしれません。子規は体も病弱でしたので、余計、難儀だったと思います。
 その途中で茶屋によって水を飲んで「浮世の腸は洗はれたり」という表現を使って元気をもらっています。ずっと下の谷水をおばさんが汲んできたと書いています。中原から猿ヶ馬場峠にかけてはいくつも茶屋があったのですが、子規はどの茶屋で休憩したのでしょうか。
 続いて峠の頂上、現在の聖湖畔にある茶屋でも休憩。そこで次の歌を詠みました。
  またきより秋風ぞ吹く山深み尋ねわびてや夏もこなくに
 聖湖畔にはかつては大きな松の並木があったといわれるので、夏もまだ来ないのに秋のように冷たい風が吹いていると、高原の空気に触れた気持ちを詠んだものでしょう。 
 猿ヶ馬場場峠を越えると、麻績、青柳、西条と宿場は続くのですが、それらについての記述はなく、西条宿の次にある乱橋宿(左の写真)に泊まりました。同じ旅籠に泊まった知らない人たちの話し声がうるさくてよく眠れなかったとこぼします。
 そして翌朝は乱橋宿の上部にそびえる立峠を、今度は徒歩ではなく馬に乗って越えました。そのときの気持ちを「馬に乗ればこんな楽しい旅はない。きのうの馬場峠はなんと苦しかったことか」と振り返っています。そして山の辺に咲く白い小さな花の名前がウツギであることを教えてもらい、子規は感激して次の歌を作ります。
  むらきえし山の白雪きてみれば駒のあかきにゆらぐ卯の花
 この「白雪」というのはまだ山肌に雪が残る北アルプスのことを指すのだと思います。汗をかいて湯だったように赤く見える馬の肌と、ウツギ花と北アルプスの雪の白さがとてもコントラストが効いて興味深かったのではないでしょうか。
 立峠にたどり着くと馬を降り、そのときに聞いた鶯の声に感激し次の句を作りました。
  鶯や野を見下ろせば早苗取り
 立峠から南側には現在の松本市四賀地区(旧四賀村」の盆地が広がり、広々とした田園地帯です。ちょうど時季を迎えた田植えの風景が子規の目前に広がっていました。
 小説をあきらめて
 この紀行の主たる目的地は木曽にありました。子規は当時、小説で身を立てるか詩で身を立てるか迷っていました。子規は明治を代表する小説家の一人、幸田露伴の小説「風流仏」にほれこんでおり、この小説の舞台が木曽であったからではないかと考えられています。
 芭蕉が歩いた道を自分も歩こうという気持ちが強ければ長楽寺(千曲市八幡地区)にもた立ち寄ったはずです。のちに「月並み」と言って旧態依然とした俳諧の師匠たちを批判することになるので、子規の頭の中には「古来、句歌の主要素材になっていた姨捨はもう古い」という思いがあり、あえて寄らなかった可能性もあります。
 子規はこの旅のあと、小説に取り掛かり、明治25年(1892)初頭には「月の都」という小説を書き上げます。しかし、師と仰ぐ幸田露伴の評価がかんばしくなかったのか、小説家の道をあきらめます。趣味の域を越えて打ち込んでいた「俳句」で独自の芸術を達成しようと決めます。翌明治26年には、芭蕉が歩いた「奥の細道」のルートもたどり、「はて知らずの記」という紀行文をまとめます。そして俳句という言葉を世間に広めていきます。
 結果的には更科紀行街道の旅があって子規は芭蕉を乗り越え、発展させることができたとも言えます。今のように世界に知られる五・七・五のリズムの文芸がまだ確立していない時期ですから、子規はとても苦しかったと思います。何かを達成したい確たるものがあるのだが、それをつかみ切れていない。でも子規はとにかく芭蕉がたどった道を歩いてしまったことで、現代につながる「俳句」の世界を打ち立てることができたのではないかと思います。 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。