3号・日本の美意識が佐良志奈神社の社標に

 旧更級村(現千曲市更級地区)の南の入り口に位置する佐良志奈神社に、ちょっと楽しい和歌があります。
月のみか露霜しぐれ雪までにさらしさらせるさらしなの里
 神社の玄関部分にある石の社標の側面に刻まれています。
歌の意味を現代風に解釈すると、月だけでなく露も霜もしぐれて雪になって真っ白になってしまった、これがほんとのさらしさらせる更級の里―などと洒落も効いた歌だなと思っていたのですが、佐良志奈神社宮司の豊城直祥(とよきなおあき)さんに、歌の由緒をうかがいに行って驚きました。なるほど社標に刻むにふさわしい歌だったんです。
白の彩り
   作者は「正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)(ぎょう)の姑、柳原大夫人」。正親町三条実愛は、江戸時代末期、幕府を倒そうとした勢力の中心的な公家です。その姑、つまり義理の母親となる柳原大夫人につくってもらったということになります。柳原家は京都で昔から文筆を家業としてきた家柄で、したがって、夫人も歌を詠む相当な素養があった人だと思います。
豊城家も正親町三条家の系列とされることから、直祥さんの三代前の宮司、直友(なおとも)さんが京都に行ったときに、実愛卿を通じて柳原大夫人につくってもらったのだそうです。当時は神道を勉強するメッカは京都で、直友さんも毎年一度は歩いて京都を訪ねていたということです。
「さらしさらせる」の文句は、佐良志奈神社が千曲川のほとりにあることを直友さんが夫人に伝え、夫人は古代から朝廷に貴重品として信濃国から布が献上されていたことを踏まえ、布を水にさらしてきれいに仕上げている様を言葉にしたのではないか。直祥さんはそう推測します。
この歌には、姨捨山と月、そして千曲川を、更級にだぶらせてイメージし、全体を「白」で彩ろうとした意図がうかがわれます。
直友さんはこの歌を書いてもらった和紙を石に張りつけてその字の通りに彫ったのでした。明治維新まであと6年となった1861年、文久元年のことです。(これが更級村という名前をつける一つの有力な根拠にもなったのですが、これについては改めて記すことにします。)
この歌のいわれに関心が及んだのは、更級小学校の校歌の文言を目で追っていたときです。
校歌にも
   更級小学校は2004年、開校130周年を迎え、11月20日に記念式典を開催しました。私も卒業生の一人として出席しました。そこでいただいた資料の中に校歌が三番まで書かれていて、子どもたちと一緒にピアノ伴奏に合わせて歌いました。
1番にこういう言葉があります。
さやけくすめる更級の月影照らす山と水
 1番から3番までの歌詞を下に掲げました。
一、冠着山の峰高く
  千曲の川の水清し
  さやけくすめる更級の
  月影照らす山と水
二、 学びの道を一筋に
  心の月の曇りなく
  人をたのまずおのがじし
  たゆまずうまず進むべし
三、そびゆる山のいや高く
  流るる川のいや遠く
  月にみがきて更級の
  里の名を世に伝うべし
    (作詞・浅井洌 作曲・福井直秋)
 どうでしょうか。私はほぼ30年ぶりに全部の歌詞を読み直しました。全体が白色で覆われているような感じを受けました。「さやけくすめる―」以外にも、月影、心の月の曇りなく、月に磨きて…と、澄んだ空間、情景が浮かんでこないでしょうか。
作詞をした浅井洌(あさいれつ)は県歌「信濃の国」も作った人。ほかにも多くの学校の校歌を作っていますが、これほど「白」を強調したものはないのではないでしょうか。浅井の頭の中にも、柳原大夫夫人のイメージと似たものがあったのはまちがいないでしょう。
白は無色、なにものにも染まっていない色というイメージがありますが、それだけではありません。「白」の意味について川端康成がノーベル文学賞を受賞した際(1968年)、北欧スウェーデンの首都ストックホルムで行ったスピーチで興味深いことを言っています。
「色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています」
 世界に高らかに川端が披露した日本人の伝統的な美意識を、直友さんも持っていたと言っていいと思います。
 黒船と蟹
 直友さんはNHKの大河ドラマで人気を博した「新選組」の局長近藤勇(スマップの香取慎吾が演じた)とも付き合いのあった松代藩士の佐久間象山と友人関係にあり、藩の学校「文武学校」でともに先生を務めました。直友さんもまた和歌をつくっており、直祥さんは、直友さんの次の歌がとても印象深く記憶に残っているそうです。
 )五十鈴川(いすずがわ)みなかみ清く澄む水をかきな濁しそ蟹(かに)のひと群れ
  五十鈴川とは神道の聖地でもある三重県伊勢市の伊勢神宮のほとりを流れる川のことで、その流れの中にいる蟹を、開国を迫るアメリカのペリーの乗った黒船の到来にたとえて、詠んだ歌だとのことです。
「佐良志奈神社」は平安時代の各地の有力な神社名を記した延喜式(えんぎしき)と呼ばれる公文書に載る由緒ある名前です。 直友さんはそのことに誇りを持ち、自分が千年を越える歴史の中に生きていることを自覚していたのだと思います。
直友さんは明治14年(1881)、12月31日に亡くなりました。幕末から明治にかけ、まさに激動の時代を生き、日本とは何か、「さらしな」とは何かを考えたのではないでしょうか。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。