90号・明治を生きた佐良志奈神社宮司の詠嘆

  欧米諸国に並ぶ近代国家を目指して激動した日本の明治時代、当地に多大な貢献をした一人が佐良志奈神社宮司の豊城豊雄さんです(左の写真)。古来の姨捨山が冠着山であることを論証する「姨捨山所在考」をまとめるなど、初代村長の塚田小右衛門(雅丈)さんと協力して当地の新しい村の名前を更級村にするのに尽力し、更級小学校の先駆けの校長先生も勤めました(シリーズ14参照)。その豊雄さんが座敷の襖にしたためた和歌と書が芝原地区の豊城隆雄さんのお宅に伝わっています。
 里の春夏秋冬
 中段左の写真をご覧ください。隆雄さんのお宅の座敷の襖です。隆雄さんのお話では、おじいさんの豊作さん(故人、襖写真の左上)が豊雄さんのところに和紙を持って行き、そこに書いてもらったものです。豊作さんは明治11年(1879)、豊雄さんより37歳後の生まれです。親戚であり、幼少のころ豊雄さんから学問を教わって尊敬する豊雄さんに、ぜひお願いしたいと思ったと、隆雄さんはおっしゃっています。豊作さんのお名前の「豊」という字は豊雄さんからもらったそうです。
 豊雄さんの襖の書は全部で6枚あるのですが、写真の4枚は四季それぞれについて詠んだもので、白抜きの字はくずし字をもとの漢字で表記したものです。我流に変体仮名を読み解いた結果の歌が、左の短冊状に列挙したものです。
 春は一番右の「見渡せば入り江の氷うち解けて鴨の浮き寝に春を知らるる」。現在の大正橋のたもと、上山田温泉入り口あたりが、水が溜まるところになっていたので、ここに集まって身を休めている鴨を見て詠んだものではないかと思います。氷が解け、のんびり浮かんでいる鴨の姿を見ていると、春が来たなあと思わずにはいられない、という感慨です。
 右から2枚目の夏は「さじさせば川風涼しいままでの暑さは船に乗り遅れけむ」。まだ、大正橋がない時代ですから、千曲川は舟で渡って行き来していました。「さじ」とは舟の櫓,櫂のことではないかと思います。とても暑い夏だが、櫓を千曲川の水の流れにさして進み始めると、川風に体が包まれて、乗る前までの暑さがうそのようだという気持ちです。
 秋の題材はやはり月です。「世事憂しと思い入りぬる山すみの此方より照る秋の夜の月」。これも佐良志奈神社での夜、八王子山から顔を出した月のことです。世の中にはわずらわしいことがたくさんあってつらいと思って空を見上げたら、月がポッと現れた。この景色を見つけ豊雄さんの気持ちは和らぎ癒されたかもしれません。
 四枚目の冬は「新年を慈しみながらもことなくて春来しこの身を祝ふ今日かな」。厳かしい新年をまた、迎えられて本当に幸せだという感じです。
 鹿児島人も白をイメージ
 ほかに床の間のとなりにある襖に二枚張ってあり、一つは「さきがけと雪もいとわず咲らめじありと知らせて月のさゆらん」。早春、桜が咲いたときに雪が降ったのではないでしょうか。雪をもなにものともせず、桜が春を知らせている。その上空では月が清らかに照っている。桜の花に月光があたって妖艶で幻想的な光景が出現していのかもしれまません。
 もう一つの襖は部分的に破れたりして、文字がもとの位置からずれてしまい、まだ読み解けていませんが、「国」「万代」という言葉があることから、豊雄さんが神主としての使命や役割を詠んだものではないかと想像できます。
 以上、6枚の歌は、まず豊雄さんが神主としての気概を詠み、続いて早春から1年間のさらしなの里の情景を込めたものだと思います。つまり、隆雄さんのこの座敷には1年の四季が表現されているのです。
 豊雄さんの歌と書には鹿児島の人も触発されました。昭和35年(1960)ごろ、隆雄さんのお父さんの安雄さんの弟さん、豊治さんの友人が鹿児島から訪ねてきて10日間ほど逗留した際、右の写真の書と歌を残しました。全4枚、世話になった豊城安雄さんの漢字を一つずつ頭に置いて、芝原・若宮両地区を中心にさらしなの里を詠んだものです。
  豊かなる更級の里山峡にりんご樹紅く西日に映ゆる
  城をなす上田の市を横切りて悠久の流れ千曲は流る
  安らけき若宮の杜静もりて汽笛が走る雪白き夜
  雄々しくも冠着山の白樺の白きがゆえに信濃を恋ふる
 鹿児島の人も「さらしな」という言葉の響きについて白、清らかさをイメージしていたことが分かります。
 隆雄さんの現在のお宅は昭和30年(1955)に新築され、現在の襖はそれ以降に張り直したものです。さらしなの里の宝物です。豊作さんの写真は、武水別神社(千曲市八幡地区)の大頭祭と呼ばれる新嘗祭で祭りを主催する氏子5人の中で、最上位になる三番頭をお勤めになったときのものです。豊雄さんの歌と書によ襖の存在を教えてくださったのは、隆雄さんのご親戚の豊城武久さんです。

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