115号・郷嶺山は月のテーマパーク?

 冠着山(姨捨山)の麓に広がる千曲市更級地区(旧更級村)にも明治時代、観月の拠点が設けられました。羽尾地区にある「郷嶺山の更級観月殿」です。シリーズ51、92などでも触れましたが、当時の様子をうかがわせる版画にようやく巡り合えました。長野県内の神社や寺などの名跡を銅版画で紹介する「信濃宝鑑」(明治33年刊行)の中にあるもので、羽尾地区在住の郷土史家、大橋静雄さんに教えてもらいました。左の写真がそれです。当時の実景にかなり忠実ではないかと思います。そう考える理由を踏まえ、現在も残る当時の面影を紹介したいと思います。
 実地調査を踏まえて
 大橋さんからコピーをもらった後、国立国会図書館(東京都千代田区永田町)の収蔵書籍を調べたら、歴史図書社が1974年、「信濃宝鑑」を複製出版しており、閲覧できることを知りました。上中下の3巻(A4版)からなり、明治時代の長野県を構成していた全16郡の主要名跡を立体的に俯瞰する構図で描いたもので、上巻に更級観月殿がありました。
 まえがきで編著者である「渡辺市太郎」さんが本を作った経緯に触れています。要約すると、信州には名跡がたくさんあるが、聞き伝えや伝説が多く誤りが多いので、調査に基づいて紹介したいと書かれています。調査の仕方については「実地を調査し、その真景を描写」と記し、協力者には「内務省寺社局」「長野県」さらに信濃の国の作詞者である「長野師範学校教諭の浅井冽」の名前も挙げています。
 更級観月殿以外の名跡の図も見ました。誇張や簡略化が部分的にあるのは否めませんが、現在の様子といずれもよく似ているので郷嶺山を描いたこの図も明治の実景を反映していると考えていいと思います。銅版画は細かな線が描け写真に近いリアルさが出せるため、当時は観光案内用にも盛んに作られたそうです。
 二本松に「倶楽部」?
 では現状と比べながら図を解説してみます。更級観月殿は中央に見えます。現在は改築されていますが、点線の先の写真は明治時代に作られた当時のものです。銅版画にある松が以来100年たったころの写真で、大木になっています。改築した更級観月殿の手前に今は、そばも食せるさらしなの里展望館が建設され、観月スポットの役割はこちらに移っています。最上部の写真は現在の郷嶺山を千曲川の堤防から撮影しました。赤い屋根の建物が同展望館です。
 「宝蔵」は今はありません。この中にはシリーズ30、52などで紹介した更級村初代村長、塚田小右衛門さんが私財を投じて作った九谷焼の大皿など更級にまつわる大事な物品が保管されていたかもしれません(現在は明徳寺に収蔵されています)。
 右下に「倶楽部」という建物がありますが、「桁行三十六尺(長さ約11㍍)」と観月殿より少し大きめなので集会場所などに使われていたものでしょうか。それらしき跡があります。左から斜め上ににつながる道がついていますが、この道を上ったところに広場が残っています。下右の写真です。図の裏側に回ったところから撮影したものです。太めの松が2本あり、かつてなんらかの建物があっても不思議ではないと思いました。ここから眺めると、手前にある小高い堂城山が風景を二つに分け、鏡台山と長野市方面の善光平をそれぞれ楽しめるスポットです。
 図にはほかに四阿屋(現在は別の位置に再建)、姨捨山遥拝殿(現存)、さらに句歌碑(現存)もあります。これらを総合すると、「さらしなの月」を存分に楽しむための機能を備えさせた所が郷嶺山です。明治の郷嶺山は「月のテーマパーク」と言っては言いすぎでしょうか。
  銅版画のコピーを手に歩いただけなので確かなことは分かりません。観月殿に至る急坂の道も確認できていません。地元の方の記憶もひも解いてもらい、さらに調べます。
 更級郡の代表
 複製版を見ていて驚いたのは、50ほどある更級郡の名跡の中で、更級観月殿が2番目に登場していることでした。トップは冠着山(姨捨山)です。それだけ更級郡の代表として世に紹介されていたことになります。冠着山の銅版画には現在の更級地区一帯も含まれています(これについては、のちの回で紹介したいと思います)。
 残念なのは、多くの名跡の版画は歴史的な経緯を紹介する由緒も刻まれているのですが、更級観月殿についてはありません。しかし、右上に西行法師の和歌「天雲の晴るる御空の月影に恨みなぐさむ姨捨の山」を添えています。
 この銅版画制作に出資した一人が初代村長の小右衛門さんだと思われます。シリーズ51で「鉄道唱歌」の作詞者、大和田建樹さんを郷嶺山に案内したと紹介しましたが、お二人はこの光景の中で「さらしなの月」を味わったのです。

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