130号・芭蕉が眠る義仲寺と姨捨の一大観月会

  松尾芭蕉が当地で詠んだ句「俤や姨ひとりなく月の友」が刻まれた「面影塚」の地中(長楽寺)には、滋賀県大津市の義仲寺の土が壺に入って埋納されているとシリーズ80で紹介しましたが、ようやくこのお寺を訪ねることができました。義仲寺は平安時代末期、平家打倒の志半ばで憤死した木曽義仲を供養する寺。義仲のことが大好きだったため芭蕉も死後はこの寺に葬ってほしいと希望し、芭蕉の墓がある聞いていたので、一度訪ねたいと思っていました。
 「芭蕉が使った杖」も
 JR東海道線の膳所駅から歩いて10分かからないところに義仲寺(下の写真)はあり、受付で執事の永井輝雄さんが近江弁の柔らかい口調で迎えてくださいました。この寺の創建は、粟津(現在の大津市)で最期を遂げた義仲の死後、側室であった巴御前が近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことに始まると、伝えられているそうです。
 今はマンションや住宅街の中にありますが、芭蕉はこの寺が好きでよく立ち寄っており、当時、門前は旧東海道の街道筋で琵琶湖に面しており、水辺が見えるところだったそうです。水と言えば月がつきものなので、芭蕉がこの寺を愛し、いくつも句を詠んだのもよくわかる気がしました。建物の一つは句会の拠点で、巴御前の言葉にちなみ「無名庵」と名付けられています。
 芭蕉の墓はその無名庵の縁側の前、石囲いの中にあります(右下の写真)。ひびが入ったのか割れたのか、つなぎ合わせた跡らしきものがありました。細長い三角形で大きくも小さくもなく、愛らしく親しみを覚える形です。その隣、少し離れたところに義仲の墓がありました。
 芭蕉の弟子たちの句碑や墓もたくさんあり、由緒がある寺だったのですが、敗戦後に荒廃壊滅の危機に瀕し、1965年ごろ、篤志家の寄進で現在の伽藍のように再建されたそうです。「粟津文庫」と呼ばれる資料館もあり、芭蕉が使ったと伝えられる杖がありました。椿の木で出来たもので細く短く、これで旅ができるのかと驚きました。芭蕉は今の日本人より体格は小さかったと思いますが、この杖をもとに芭蕉の身長や体重も算出できるのではと思いました。
 刈田に水をはってお月見
 帰ってきてから、またさらしな・姨捨の文献をいろいろ見ているうちに、昭和11年(1936)、近江の俳人たちの一つの拠点でもあった義仲寺・無名庵の庵主が、芭蕉の当地への来訪250年記念として全国から約四百人の俳人が参集した一大観月会のスポンサーになっていたことを知りました。姨捨文学研究の第一人者の矢羽勝幸さんの著書「姨捨・いしぶみ考」に詳しく紹介されています。
 それによると、その無名庵主は霞遊という俳人。本名は小野安太郎さんで、兵庫県に大きな医院を営む医者でもありました。昭和11年の中秋9月30日に合わせ、「田毎の月」で世に知られるさらしな・姨捨にふさわしく、田の水に映る月を楽しもうと考えたようです。本来、中秋のころはもう稲が穂を垂れる時期なので、田に水はないのですが、霞遊さんは大金をはたいて1反7畝(約1700平方㍍)の田を買収し、稲を全部刈り取って水をはりました。現在の姨捨地区の9月下旬はもう収穫の時期ですが、70年余り前の当時は地球温暖化の今よりは涼しかったから、刈り取りには早かったでしょう。食米にはならないので、その見返りとして土地の買い取りになったのでしょうか。
 霞遊さんは、買収した田んぼの中央に、太い青竹で四畳敷きのやぐらを組み、幕を張って月見殿としました。「空中観月」とも言えるような趣です。そして水に映る月の句をいくつも残しました。
  真如とは今宵の月の光りかな
  古への月をうかべて水すみぬ
 
 月と水一つ寝をして若がへる
  照る月に終夜田毎めぐりけり
 月と水の相性の良さがよくうかがえます。雲が晴れた絶好のお月見日よりだったのでしょうか。「月と水一つ寝をして若がへる」の句は当地での観月が心とからだの潤い、つまり若返りとも関係していることを歌っています。
 数千人が繰り出す
 矢羽さんによると、この観月会を企画したのは当時、姨捨地区で俳句のお師匠さんを名乗った畔上悟友さんという方です。畔上さんは、全国に句の投稿を呼び掛け、数百人の句を収録した活版印刷の和綴じ本の記念句集「旦秋の雲」(中央の写真)を刊行しました。シリーズ124で紹介した「田毎の月」をモチーフにした新たな浮世絵の発掘に協力してくださった長野市の古書店「新井大正堂」さんで以前、買っておいた古書がその本であることが分かり、折にふれてめくっていたのですが、260ページに及ぶものをよくまとめたと関心します。現在、毎年中秋に行われる「さらしな・姨捨観月祭」では千曲市が全国に投句を募って記念句集を編んでいますが、それを上回る手の込んだ編集です。
 中央左の写真の左端の碑が、この一大観月祭を記念して作った記念碑です。表面には「田毎映月を復興し天下の雅人とともに昔を偲ぶ」と記され、 現在は長楽寺の下、四十八枚田と呼ばれる田の上方の道沿いにあります。霞遊さんの書で「照る月に終夜田毎めぐりけり」も添えられています。背面に畔上悟友さんら世話人の名前が刻まれています。
 長楽寺近辺の沿道には葉のついた青竹を立て、花火も打ち上げ、数千人が繰り出したそうです。東京からも新聞記者が取材に来ました。矢羽さんは「後にも先にもこのような一大観月会をなかった」と書いていらっしゃいますが、当時なぜ、こんなイベントが可能だったのか。かなり俗っぽさを感じますが、戦後のさらしな・姨捨の衰退を考えると、明治の鉄道開設以降、活況を呈した「さらしな・姨捨」人気の一つのピークだったように思えます。
 最上部の写真は左が畔上悟友さん、右が霞遊さんです。「旦秋の雲」の中にあった肖像写真を複写しました。

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