150号・さらしなの里の春を探しに「堂の山」

 更級保育園(旧更級村、現千曲市更級地区)に在園した人は大半が「どーのやま」で遊んだ記憶があると思います。更級地区内の二つの集落、芝原、仙石両区の境界でもある、冠着山(別名・姨捨山)の尾根筋に展開する一つの里山です。山に入るには沢を渡らなければならず、沢に渡した丸太橋(左の写真①)を通過することが関門であるため、それも記憶を濃くするようです。ドングリの木をはじめ手頃な山道があるため、小学生になっても格好の遊び場でした。ただ、なぜこの山が「どーのやま」と呼ばれるのか疑問だったので、山の所有者である大谷正平さん(芝原区在住、写真②)にお話をうかがいました。昔、お寺のようなお堂があったことからの呼び名ではないかということです。
 大谷一門の氏神様も
 ③の写真をご覧ください。丸太橋を渡り山に少しに入ると現れる光景です。広場状になっており、ここが主要な子どもの遊び場です。奥の建物は大谷正平さん一門の氏神様を祭ったお宮。④の写真がこのお宮を新築した30年ほど前にご家族で撮った記念写真です。お宮の周辺には「飯縄大明神」と大書した幟を立てました。その幟が②の写真、正平さんの足元にあるものです。飯縄大明神とは北信五岳の一つ、飯縄山に対する山岳信仰をもとにしたとされる神様で、「おいづなさん」と呼んでいるそうです。幟はお宮を新築したときに土蔵の長持ちから引っ張り出しました。「元治紀元」と書いてあるので、今から約150年前の江戸幕末、1864年に作ったものです。当時はこの幟を立て、このお宮付近で一門のお祭りをやっていたとみられます。
 私は最初このお宮があるので「堂の山」となったのかと思っていたのですが、正平さんによると、そうではなく、ここから100㍍ほど上にお堂があったためではないかということです。その場所に行ってみました(写真⑤)。現在も山際のへこんだ斜面にお寺があるのをあちらこちらで見かけますが、そんな感じの場所です。ここは正平さんが昔、お父さんの貞治さんとリンゴ畑に開墾した所で、開墾の際、現代のお墓にあたる五輪塔の部分とみられる石が複数出てきました。ご自宅の庭に持ち帰ったのが⑥の写真です。こうした五輪塔は中世によく見られたものです。合わせて骨片や灰も見つかり、「火を焚いた跡のようだった」と正平さん。中世の宗教施設は、今のような伽藍のりっぱなお寺ではなく草の庵もたくさんあったので、そんな姿を想像しました。
 その場所からは当地を代表するほかの里山の郷嶺山、堂城山、さらに戸隠山、飯縄山まで一望できます。少し下れば左右に冠着山と千曲川の流れも目に入ります。現在もそこには直径約60㌢の杉の木が一本そびえ立っています。正平さんが小さい頃にはもうあったといいます。お堂のあったことを伝え聞いてきた人が信仰の場所だからと特別に植えた杉ではないかと想像しました。
 父の冠着、子の堂の山
 今から10年ほど前、更級保育園の子たちと一緒に、堂の山に行ったことがあります。同園では春、木々の芽ぶきや若葉を体験しようと「春を探しに堂の山に行く」という話を聞いていました。そのときに撮った写真が左上の①です。丸太橋を恐る恐るわたる子どもたちの姿がありました。「さらしなの里友の会だより」(4号)に掲載された当時の園長、平林千代子さんのエッセーがすばらしいので、ここに再掲します。
 春は、杏、桜、林檎の花の蕾がだんだんとほころび、さらしなの里は一面花盛り。子どもたちと散歩に行き、花の美しさに、つい見とれてしまう。
 更級保育園の子どもたちはとても幸せだ。春の園外保育に必ず行く山があり、その名が「堂の山」。冠着山が父なら、この山は子のような小さな山だ。
 山道の入り口には沢があり、丸太橋がかかっている。小さな子どもたちがわたるのには至難の技だ。
 おそるおそる四つ足で進む子。カニのように横歩きする子。それぞれ工夫してわたる眼差しは、真剣そのものだ。わたり終えると急な坂道が続くが、子どもたちの表情は、生き生きして元気に登っていく。
 山頂に着いた時の笑みは、とてもさわやかで、喜びを全身で現している。木々がたくさんあり、木登りしたり、実を拾ったりと、遊びを十分満喫できる場所。 更級の自然の中でたくさん遊びを体験することで、自然の美しさを感じ、心豊かに育つことを願いたい。   (平林千代子)
 更級保育園の堂の山遊びは園が開設された1964年から始まりした。始めたのは当時の主任、米沢文子さん(千曲市千本柳在住)で、そのころの様子がうかがえる写真(⑦)をお借りしました。丸太橋は正平さんが作ってくれたものです。今号をまとめるに当たっては、大谷芳文さん(写真⑥、芝原区在住)のご協力を得ました。芳文さんは堂の山の間伐など手入れもしてくださっている方です。

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