更級村が戸倉と五加と合併して戸倉町となって間もなくの昭和三十三年(一九五八)、町が建設したこの橋の名前を一般から公募した。私は締め切りの日に「冠着橋」と書いた紙を持って駆け込んで入選。六月七日に橋の渡り始めがあり、当時の町長、米沢嘉久太さんより橋名の入選に対して賞状・賞金をいただいたのだった。橋名は「嘉久太」が一番多く、「冠着橋」は三名だったそうである。
昔は更級村と五加村を結ぶ渡船場があり、村人の往来だけでなく、特に五加の人にとっては冠着山から薪を取って運ぶのに利用されたところだった。思えば昭和三十六年、屋代木材に勤務、毎日、自転車通勤、冠着橋を渡り勤めていた。会社の帰りは、橋の上で自転車をとめて、四季に変わる冠着山を眺め古代、官人にうたわれた更級の里を偲びながら家路についたのだった。
(文・千曲市仙石区の小松康孝さん。さらしなの里友の会だより19号=2008年秋=から、一番上の写真は初代の冠着橋、吊り橋だった)