シリーズ95で俳人、松雄芭蕉が長楽寺を訪ねるときに歩いたとみられる「オバステ近道」のことを書きました。その後、稲荷山地区(旧更級郡稲荷山町)の文化施設「蔵し館」を訪ねたところ、江戸時代までの当地の古道の姿を記録した地図をつけました。この地図には、ことしの春先、千曲市川西地区振興連絡協議会(会長和田茂男さん)のみなさんが復元してくださった道とほぼ同じルートが記されています。左の写真です。
芭蕉は「杉ノ木」を通過?
明治15年(1882)年、稲荷山町に郵便電信局が開設した際に、管轄の稲荷山町、桑原村、八幡村、更級村の1町3村を地図にしたものです。「更級郡稲荷山郵便電信局郵便区全図」とタイトルが振られ、蔵し館併設の蔵の中に展示されています。約80㌢四方の大きさの和紙に村ごとに色を変え、標高も直感的に分かるように描かれ、とても分かりやすい地図です(写真の上部は黄色の部分は稲荷山町、それ以外は桑原村、中央の黒茶色・八幡村、その下の茶色・更級村)。
姨捨駅が設置されたのが明治33 年(1900)。まだその様子はうかがえません。江戸時代まで人間や牛馬が歩いた古道が、ここにそのまま記されていると思います。
赤い線が当時の道で、一番左、北に伸びる道が「善光寺街道」です。「火打石」と書かれたスポットから東、右に向かって道が伸びているのが「オバステ近道」です。沢や川を意味する青い線を横切っており、シリーズ95で書いたように、江戸時代までの人も、やはり沢の音を聞きながら旅したわけです。
現在の道との位置関係を示すため、JR篠ノ井線(黒の点線)のおおまかなルートと姨捨駅などを地図に載せました。長楽寺は姨捨駅の右、「ヲバステ」と記された地点で、岩とお堂の絵が添えられています。オバステ近道に沿って芭蕉が歩いたとすると、現在の姨捨地区に当たる「杉ノ木」集落を通り姨岩に到着したことになります。農作業用のわき道もあったと思いますが、この地図によれば、芭蕉は「杉ノ木」を通過して当地で月見をしたことになります。
地図製作の名人
地図を作ったのは八幡村峯地区生まれの坂口白逸さんです。「更級郡埴科郡人名辞書」によると、白逸さんは隣村、桑原村の池内墨潭さんから書と製図法を学び、測量地図製作の名人でした。シリーズ32でも紹介しましたが、俳句の実力者でもあり、長楽寺の境内には「わが心月にみがくや山の上」の句碑があります。
峯地区は「杉ノ木」を少し北に下ったところの集落です。白逸さんは弘化2年(1845)に生まれ、大正5年(1916)、72歳で亡くなりました。白逸さんが残したこの地図は、さらしな・姨捨の古道を精緻に記録した重要な歴史文化遺産だと思います。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。