更級村ー村名の由来

  長野県千曲市を中心とした、冠着山(姨捨山)のすそ野に広がる全域を「さらしなの里」と呼び、地域を元気にしていくさらしなプロジェクトが始まりましたが、冠着山の直下には、以前から「更級地区」と呼ばれるところがあります。その地区名は、かつて「更級村」という村があったことにちなんでいます。以下は、更級村という村名ができたいきさつについて、旧更級村生まれの郷土史家、塚田哲男さん(2007年死去)の論考です。

 更級村―村名の由来

  更級命名由来1枚にsamuneiru明治6年(1873)、長野県は各村に学校をつくって教育を普及する御触れを出した。当時の各村は、一つの村では基盤が小さく、運営が難しいので村々連合でつくることになった。当地の若宮村、須坂村、羽尾村は近縁ということで、三カ村連合の学校を設立することになった。さて名前はどうするか。三カ村はそれぞれ小さい村ながら、独自の気風があって統合にはご苦労なこともあったようだが、結局、校名は「鼎立学校」ということになった。
 鼎は古代中国の殷の時代の青銅祭器で、すこぶる神聖視されていた。鼎立とは、この器の脚が三本であって、漢和辞典によれば「三者がたがいに対立すること」とある。三者がたがいに立つ、平等の立場を示す意として決められたようだ。この名は、その後、県の方針か国のご意向か知らぬが、「所在地の名をもって校名とするべし」との通達で、明治19年に改名することになる。学校所在地は羽尾村なので、名前は「羽尾学校」となった。若宮村と須坂村ではどう思っただろうか。
 学校経費は応分の負担をしているのに、名前が「羽尾」では、「それなら、負担金も羽尾で持ちゃいいじゃないか」という不満の声もあったようだ(この校名は明治25年まで続いていた)。後年、更級小学校の校地を決めるときに、寄付金非協力などの動きがあったのは、このときの感情の鬱屈が一つの原因をなしていたと感じ取れるのである。校名一つ決めるのも、まことに難しいものだった。
 新村名めぐる攻防
 町村合併は国の方針が明治21年に公布され、若宮、須坂、羽尾の三カ村は同22年に合併することになった。当時三カ村の連合戸長は、羽尾村の塚田小右衛門(雅丈)=写真(ご子孫の塚田せつ子さん所蔵)=が務めていた。
 合併するとなれば、新しい村名を考えねばならない。当時の一般的な方法としては、合併する中の一番大きな村の名をとって名づけるのが大方の方法であった。所によっては、両村、あるいは三カ村の一字ずつをとって名づけたというのもあるが、これこそ苦肉の策で、双方または三方ともに歴史的背景を消し合う形になっている。さて、羽尾、須坂、若宮三カ村の合併後の名前はいかにすべきか。ここで主導したのが塚田雅丈である(「小右衛門」は代々の襲名)。
 羽尾村は該当三カ村の中では第一の大村で、世間一般の風潮からすれば「羽尾村」と新村名を名乗ったとしても不思議ではなかった。事実、雅丈が公私にわたって書き残した文書「雅丈雑記」には「新村名は羽尾、仙石にては、苦情もこれ有り候とも、わが意見を以って更級村と改称する」と記されている。雅丈は前々から「伝説に名高い真の姨捨山は冠着山である」との説を抱き、三カ村はその地域内にあり、往古の和名抄に載る「更級の郷」は当地を指すとの確信を持っていた。このため雅丈は新村名を更級村とすべく提案をしたのである。
 関係する三カ村のうち、第一村の戸長がこのような所論を示せば、ほかの二カ村も聞き入れざるをえない。雅丈は、学校名のことが心裡にあったのであろう。一村統一のためには新しい名前、それも皆が納得できる美しい名前が必要なり、と考究したのではなかろうか。これから「更級」の名を名乗るについて、雅丈の平素の勉学の成果が開示されることになる。
 他地も名乗り出る
 雅丈は古来の文献をあさった。当時の文献は限られているが、手に入れられる限りの史料は渉猟し尽くしたようである。雅丈の使った文書類は村に寄付されているが、その中に「信濃地名考」(吉沢好謙著)がある。随所に赤い線が引かれ、苦心して探索されたようすがまざまざと遺されている。この勉学に基づき「命名の由来」という上申書を書き上げ、三カ村の代表者多数の署名をつけて県庁に提出した。
 羽尾村地籍にある冠着山は、更級郡著名の高山で、姨捨山の別名がある更級山もこの山のことです。歴史をさかのぼると、わが三カ村はこの山のふもとにあり、古昔更級郷(更級郡九郷の一つ、和名抄にある)と言っております。これは更級山より発したること明らかです。冠着山の嶺は若宮村万治嶺に連なり、その麓に若宮八幡社があります。これを佐良志奈神社と号します。延喜式内社です。更級山の東麓にあるために佐良志奈の社号を付したのです。
 ところが、郡内のどこかに、更級の名にこだわる所があって「わが地こそ更級だ」という伺いが出た、とも伝えられている。そのためか、雅丈はさらに精査を命ぜられて再申書を提出している。
 羽尾村冠着山に連なる一本松峠嶺は、古昔の官道、浦野駅より越後に通ずる道路で、延喜式にも駅名があり、ならびに令義解に記されている駅馬の数などをご参考になれば、当地が更級の地であることは明らかと存じます。若宮村八王子社境内にもある石祠にも、「更級の里若宮村」と刻されています。惜しいことに、数百年を経、年号が摩滅してよく分かりませんが、実際にご覧になれば、古事であることお分かりになるでしょう。佐良志奈神社の社号は、千有余年前の延喜式に記載されております。いつのころからかは、はっきりしませんが、吉田殿(京都吉田家、神社の元締め)に願い出、いただいた告文中に、「貞観の古昔、佐良志奈神社と称したてまつる云々」とありました。また神社名はだいたい、地域名に拠るもので、隣郡の埴科坂城郷の坂城神社、小県郡山家郷の山家神社など、ほかにも類例数が多くあり、これによっても更級郷は三カ村の地名に相違ありません。
  幸いに新村名は申請通り可決されて「めでたし、めでたし」となった。この間の、雅丈の心労いかばかりであったろうか。嘉永元年(1848)生まれの、おん年39歳の時の大奮闘である。
 なお、この折り、書面には現れぬ証拠材料として佐良志奈神社社標の側面に刻された和歌、
  
月のみか露しもしぐれ雪までにさらしさらせるさらしなの里
             
 (正親町三条実愛卿の姑、柳原大夫人)
 
が大きな効果をもたらしたと、豊城直祥宮司が語られたことがあるが、この神社の明治の当主、豊雄氏が、雅丈の後ろ盾として協力、助言をされたものである。
 善光寺と並ぶ名所
 更級村と命名されてから現代まで、百数十年がたった。この間に新しく分かったことはいくつもあって、当時、雅丈が説いた「当地が往時のさらしなの里」という所論を裏づけている。その一部を取り上げてみる。
 「明月記」は歌人として名高い藤原定家が書き記した日記で、定家19歳の1180年から書き続け、1235年、74歳に至る56年間の長きにわたっている。その1227年(安貞元年)9月の条に、「使者、信濃より京都に帰り、国情を報ず」の一文がある。
   九月二十五日、天晴、風静、朝天無雲。(中略)更級の里姑棄山に対す、里の南西にあり。あさまのたけ燃ゆ、ちくま川大河なり、国中を廻流す
 すなわち、800年前、ご使者は更級の里を実見し、その位置まで書き残している。ご使者の見た位置は千曲川の対岸である。
 「明月記」は永く冷泉家の蔵本で、広く世間に知られることもなかったのであろう。明治期の人には、目に触れ得ぬところにあったようだ。しかも、この一文、信濃の印象的な所として浅間山、千曲川、そして善光寺と地名を挙げ、それと並べて更級の里(姑棄山)を記していることは、都人にとって更級の里は、それほど期待される名所であったことを示している。
 後醍醐天皇の皇子である宗良親王が更級の里に住まわれた時期は、明確ではないが、1347七(正平2年)から数年と言われている。自分で編んだ「新葉和歌集」に次の歌などがある。
   秋 姨捨山近く住みはべりしころ、夜更くるまで見て思いつづけ侍りし
     これにます都のつとはなきものをいざといはばや姨捨の月
 また、親王の歌集である「季花集」には
  佐良科の里に住みはべりしかば、月いとおもしろく秋ごとに思いいでられければ
    もろともに姨捨山をこえぬとは都にかたれさらしなの月
 姨捨山は冠着山のこと。更級の里はこの姨捨山のふもとであること明らかである。
 清涼殿のふすま絵にも
 清涼殿は京都御所の中で、紫宸殿が正殿として天皇の公式行事が行われたのに対し、天皇の御座所として用いられた御殿で、天皇の居住の場と、公式行事の行われるための場と、大小さまざま数多くの部屋に区切られている。そのうち「萩戸」は天皇の居室として用いられていた。
 この部屋の四面に立てられたのが鳥居障子と呼ばれるふすまで、「更科の里」を含む名所絵が各面に描かれている。「更科の里図」は名所姨捨山とふもとの里の景色を映したもので、初冬の時、雨にけぶる山(冠着山)と、竹林に民家を配している。ふすま上部には次の和歌が書かれている。
  おばすてのやまぞしぐるる風みえてそのさらしなの里のたかむら
 絵の筆者は土佐光清(1805〜62)、土佐派大和絵の最後の巨匠と言われる人。和歌は飛鳥井雅典。御所内には、ほかにもふすま絵や布障子絵に、大和名所絵と言われる各地の著名な歌枕となる名所が描かれている。その数は更科の里を含めて25箇所。葛城山、天の橋立、勢田の橋、和歌の浦、宮城野、松島などの天下の名勝の中に、更科の里が入っているのである。なお、この絵、いわゆる絵空事ではない。冠着の実態をとらえた実写である。この絵も更級の里は冠着のふもとにあることを写している。
 戦後の遺跡調査は、数多くの新事実をもたらした。当地においても、幅田遺跡(羽尾・須坂両地区)の発掘に続き、昭和62〜63年に行われた圃場整備事業に伴う円光房遺跡の発掘では、縄文時代中期の遺構を中心に、多くの時代の遺跡が発見された。その中に、平安初期の掘立て柱建物が8棟発見されている。明らかに民衆のものではなく、官衙(役所)とみられる遺構で、この地が当時の国道である東山道の支道の筋であったことと考え合わせ、この地の重要度がますます強く印象づけられるようになった。遺跡は、これから三島平、代の地域に続いており、「更級の里」の実在を示していると言える。
 北村甚兵衛さんのあいさつ
 昭和49年(1974)、更級小学校の開校百年を祝う式典が行われた。講堂で披露された「開校百年の呼びかけ」は、全校の児童が学年ごとに声をそろえて百周年を祝う言葉を呼びかけるもので、参列した父母の感激はひとかたならぬものであった。
 式典のあとの祝宴において、卒業生を代表して北村甚兵衛氏が祝辞を述べられた。北村氏は明治25年のお生まれで、更級村長に33歳のときに就任。その後、村長と一緒に県会議員を数期、務められた長老で、このとき82歳のご高齢であった。氏はその老いを感じさせぬよく聞こえる声で論旨明快に、学校の百年を祝う言葉を述べられた。
 「更級村」という村名は、昭和30年の戸倉町、五加村との合併でなくなってしまったが、氏は、「更級の名は、先輩のみなさんが大変苦心して選んだ由緒ある立派な名前である。将来、この小学校の所属する町が、どう変わろうとも、ぜひ更級小学校の名前だけは忘れずに残していってもらいたい」と語り、明治時代、先輩たちが深く考えてこの村の名をつけたことを説明され、参列者に深い感動を与えた。
 明治の時代、当時の先人たちは、少ない史料に四苦八苦しながら、その名の正当を証し、美しい村名を後世に遺された。雅丈さんが新たに判明した事実や史料を、今見ることができるならば、それこそ快哉の声を挙げられ、「己が眼に狂いはなかった」と欣喜されることであろう。偉大なる先達たちに、ただただ敬服するばかりである。 

 画像をクリックすると、大きな画像が現われ、印刷できます。「更級への旅新聞」を発行するに当たっても、塚田さんのご教示をたくさん参考にさせていただいています。6713142630333436373940414451525357などの各号です。