姨捨山の別名がある訳

 冠着山の別の名前を「姨捨山」と言うのは、どんな理由からなのでしょうか。地元の人間がふだん、そう呼ぶことはまずありません。遠方からの来客に当地のことを説明するときに口にすることがあるくらいではないでしょうか。(画像をクリックすると、以下についてのPDFが現れ、印刷できます)
 森嶋先生の説
 さらしなの里歴史資料館(旧更級村、現千曲市)で、なぞ解きのカギが手に入りました。メディアルームで上映されているビデオ「姨捨伝説とその背景」です。長野県考古学会長を務め、更級地区(旧更級村、現千曲市)にお住まいだった故森嶋稔先生の説を採用しているとのことです。私は直接、お目にかかる機会に恵まれませんでしたが、ビデオのもとにもなっていると思われる森嶋先生の文章がいくつか残っていました。
 その中の一つ「姨捨山の周辺」(はにしなさらしな八号」掲載)にエッセンスが盛り込まれています。先生はその中で次のように書いています。
 ―古くは更級が月の名所であったらしい気配が小野小町の歌や紀貫之の歌から感ぜられる。それが、棄老伝説や親孝行説話の『仏教的世界観』と結びつき、古くから古今和歌集をはじめとして、大和物語や今昔物語でゆきとどいた伝達が行われたものとみるべきではないだろうか―
 この中の『』でくくった仏教的世界観がなぞ解きの最初のポイントです。日本に仏教が入ってきたのは6世紀はじめ。森嶋先生によると、長野市の善光寺境内には、7世紀末の寺院の存在を裏づける瓦が出土しています。千曲市でも雨宮、塩崎地蔵堂、八幡青木などの地区で、9世紀前半の瓦が見つかり、古寺の存在がうかがえます。これらから更級の里を含むこの善光寺平南部の「仏教的環境」がしだいに高まり整えられていたそうです。
 また、伝来した仏教の教えの一つに「雑宝蔵経」があるのですが、その中の一節「棄老国縁」は、いわゆるお経とは違い、僧侶が大衆に語る法話のようなもので「難題を老人の知恵で解いて国を救った、だから老人を大切することになった」という内容になっています。当地でよく語られる姨捨説話とよく似ていますから、当地の姨捨説話は仏教を背景に作られた可能性があることになります。
 8世紀にメッカ?
 しかし、それだけでは、冠着山が全国に知られる「姨捨山」になるのは難しいでしょう。仏教的環境は、善光寺平よりさらに高まっている地域がほかにもあったはすだからです。もう一度、先に紹介した森嶋先生の文章に戻ります。「古くはどうやら月の名所だったらしい気配が小野小町の歌や紀貫之の歌から感ぜられる」のくだりです。これら歌人が姨捨山を詠んだ時代を並べると、更級が姨捨説話のメッカになった時期が推定できるのです。森嶋先生が列挙した歌は次の三首です。
 あやしくもなぐさめがたき心かなをばすて山の月も見なくに  (小野小町 880年ごろ)
 わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て  (読み人しらず「古今和歌集 905年)
 月かげはあかず見るとも更級の山のふもとに長居すな君   (紀貫之「拾遺和歌集」998年)
 小野小町は平安時代初期の「絶世の美人」で知られる歌人です。その歌には「更級」の言葉こそ登場しませんが、更級の姨捨山をモチーフにした心情がかなりうかがえます。「わが心」の歌はシリーズの31と32号で紹介しました。紀貫之は「わが心」の歌が盛り込まれた古今和歌集編纂の中心人物で、歌の中の「山」は姨捨山を指すと考えられています。
  歌が詠まれた年代を見てみましょう。早い順に880年ごろ(小野小町)、905年(古今和歌集)、998年(拾遺和歌集)―つまり、9世紀末から10世紀初めには、更級を姨捨伝説のメッカにした物語ができあがっていたと思われます。
 そのためには事前に更級が姨捨と切り離せない言葉になっている必要がありますが、切り離せなくなったのはいつごろなのでしょうか。
 もう一度、先に紹介した森嶋先生の指摘です。
 「善光寺からは『七世紀末』の寺院の存在をうかがわせる瓦が出土している」
 この事実から、仏教環境の高まりは7世紀には始まっていたことになります。一方で小野小町などの歌にみられるように、9世紀には「姨捨山」が都の人たちの歌に登場していることから、7世紀と9世紀の間の8世紀(701〜800)に、更級が姨捨と切り離せない歌枕になり始めたと言っていいでしょう。そして、その基盤になったのが、当時、冠着山の肩部を越え、更級地区を通っていた「東山道」の支道である、と森嶋先生は指摘しています。
 都へのみやげ話
 小野小町らが歌を詠んだころの奈良・平安時代、地方は「道」に分けられており、信濃国は東山道のなかの一つの国でした。国を道と呼ぶのになじみがないかもしれませんが、「北海道」といえば、不思議ではないでしょう。新聞によく登場するようになった「道州制」という言葉の「道」も実は、古代の「道」がもとなのです。
 東山道はまたその名の通り、道でもありました。都から東の国々には岐阜県の恵那、中津川から神坂山を越えて、伊那谷に入ります。そして松本平、塩田平を経て、碓氷峠を越え、群馬県(上野国)に抜けます。これが本道で、松本平までのルートは現在の中央高速道とほぼ同じルールを通っています。
 一方、松本平から塩田平に至る途中旧東筑摩郡四賀村(現松本市)からは、新潟県(越後国)方面に向かうルートもありました。これが支道で、この支道が「古峠」を越えて善光寺平を通過していたとされています。
 古峠とは旧東筑摩郡坂井村(現筑北村))から冠着山のすそを登って御麓地区(旧更級村)に下りていくところの峠のことで、善光寺平が一望できるポイントです。支道とはいえ、今でいう国道のような道ですから、当時の官僚や歌人が、さらしなの里を通って都と地方を行き来していたことになります。当地のことも都ではみやげ話になっていたでしょう。
 さらしなの里が全国に知られていく理由が分かってきました。しかし、なぜこの地が姨捨説話のメッカになったのか疑問は十分には解けていません。雨がしずくとなって落ちるには核になる物が必要なように、この里にも物語を生み出す核になるものがなければなりません。(続きは34号で)

 雨がしずくになって空から落ちるには水分が集まるその核が必要なように、当地が姨捨説話のメッカとなっていく上で核になったものは何か。さらしなの里歴史資料館の説を構築した森嶋稔先生は、それを今から約1200年余り前の797年に編纂された「続日本紀」記載の次のエピソードだと、お考えだったようです。
 名誉な記事
 信濃国更級郡人建部大垣 為人恭順、事親有孝
            神護景雲二年(七六八)五月辛末の項
 続日本紀は朝廷に関係した歴史を今で言えば年表のように時代順に記したもので、768年の歴史的な事実として「信濃国更級郡の人建部大垣は、その人となりは恭順であって、親に仕えて孝行であった」と記しているのです。そしてその後に、孝行ぶりを讃え、税金を免除したという記述が続いています 。
 この記事が盛り込まれた年代が重要です。768年=8世紀です。年表をご覧ください。棄老国縁に続く日本側の更級に関係する歴史的な文字資料としては最古、つまり最初のものと思われます。  天皇家の公文書に更級の親孝行者のことが紹介されている。当地の人にとっては名誉なことだったでしょう。森嶋先生は論文「姨捨山の周辺」の中で、この更級の里に昔、親孝行な息子があって、お上からとてもほめられたことがあったという記述は「更級郡の人々に多年伝承されるにふさわしい事件ではなかったか」と推測しています。その上で「それは姨捨説話を生み出す土壌であったと考えて間違いない。きっと月と親孝行な息子と仏教的世界観とが三重うつしの影絵のようになって、この説話がこの地に根づいたのではないだろうか」と分析しています。
 なるほど、仏教の教えが広まり始めたころに、親孝行の息子がいる地として天皇家からほめられた。そして旅の途上では、美しい月にお目にかかれる―姨捨伝説のメッカに、ここが選ばれるわけがかなり煮詰まってきました。もう一息です。
 オハツセと墓所思想
 古代に更級郡(さらしなごおり)と呼ばれていた地域は広くあります。したがって山もたくさんあります。その中でなぜ冠着山だけが姨捨山と呼ばれるようになったのか。そもそも「朝廷からほめられた孝行息子がいる」という、いくら名誉な記事があるとはいえ、地元の人間が毎日、目の前にして親しんでいる山に「姨捨山」などと縁起の悪い呼び名をつけるでしょうか。
 ここで「オハツセ」という言葉が謎解きの最後のキーワードになります。言葉の歴史的な意味合いの変化を調べてきた研究者によると、「オハツセ」には墓所思想が含まれているそうです。分かりやすくいうと、オハツセには死者を葬るところという意味があるということです。このオハツセが姨捨に転化したという説があるのです。確かに塩崎地区(旧更級郡塩崎村、現長野市)には、長谷寺(はせでら)という古刹があります。だからなのでしょうか。このお寺の後背地にあたる山がはるか昔は「オハツセ山」と呼ばれていたとも言われています。いや、オハツセ山の呼び名が先にあって、長谷寺が後に建立されたと考えることもできます。また、この辺りには、シリーズ前回33号で触れた東山道の支道沿いで旅人が往来していました。
 名づけ親は旅人
 とすると、この山が「姨捨山」と呼ばれていいのかもしれませんが、この山は登るのにさほど大変ではないようです。身近な山ではなかったでしょうか。一方、長谷寺から少し離れていますが、威容を呈す冠着山。ふだんの生活を離れ、自分なりの物語をつくりたい気持ちに駆られる旅人にとっては、冠着山を姨捨山と呼ぶ方が気分的にぴったりきたのではないでしょうか。
 左の写真は荒井君江さんが長谷寺の背後にある猪平地区から冠着山を撮影したものです。遠くから見ると、冠着山の山頂、山腹、そしてその麓に、別世界を想像しても不思議ではないのでしょうか。荒井さんは塩崎のお生まれで、幼少のころはお母さんから「あの山のてっぺんには神さんがおいんなさる」と教えられていたそうです。
 また、旅人は地元の人間より遠方から冠着山を見るチャンスにずっと恵まれていたはずです。やはり、姨捨山の名づけ親は古代の旅人と考えた方が腑に落ちます。旅での見聞や知人友人のみやげ話にロマンを感じた今で言う作家たちが「大和物語」や「更級日記」「今昔物語集」を書いたと言っていいのではないでしょうか。
 情報の道
 実は、森嶋先生が66歳で亡くなる直前に書いた別の論文「をばつせ山」(さらしなの里歴史資料館の紀要第一号)の末尾にある東山道についての次の記述が冠着が姨捨山の別名を持つなぞを解く一番のヒントでした。
 ―越後国への東山道の支道が(さらしなの里を)通過しているのは、姨捨伝説が成立し、流布するのに大きな貢献をしたものと受け取れる。情報の伝達は、知識人である貴人や官人の往来にあやかっていたと認めるべきである。もしそこに官道がなかったら、八世紀後半という早い時期に語られようはずがなかったように思われる―
 東山道はいわゆる「情報の道」でもあったのです。
 ここまで書いてきたことを要約、総括してみます。仏教的世界観に観月の名所、親孝行息子の実在。また、死者を葬る場所「オハツセ」の近在、さらに冠着山の威容。そして、それらを融合し、和歌や物語集といった文学に昇華させる回路としての東山道の支道。これだけの条件がそろえば、冠着山を姨捨山と呼ばないではいられなかったでしょう。