40号・京都御所に描かれた「さらしなの里」

 天皇の部屋のふすまに「更科の里」の絵が―。羽尾在住の郷土史家、塚田哲男さんに教えていただきました。東京にある皇居ではなく京都御所です。宮内庁の協力で毎日新聞社が編集した「御物・皇室の至宝6」にそのふすま絵が載っていました。塚田さんからお借りして写真を複写しました(左)。京都御所には古来の名所を描いたふすまがたくさんあるのですが、その一つに「更科の里」が取り上げられているのです。千曲川対岸の五里ケ峰付近から冠着山(別名・姨捨山)を遠望する構図です。
天皇の寝室?
御所は天皇家の儀式や執務を行う宮殿で、今から約1,200年前、平安京の建設の際に造営されました。明治初め、天皇家が旧江戸城に移って皇居となるまで日本の象徴的な建物でした。ただ幾度もの火災に遭い、現在の御所は江戸末期の1855年(安政2)に造られたものです。そして写真のふすま絵があるのは御所の中の清涼殿(写真中央)、さらにその中の萩戸と呼ばれる部屋にあります。
清涼殿とは天皇の日常の住まい、つまり自分の家のようなものです。風呂から食堂まで暮らしを送る上で必要な機能が設けられており、現在の清涼殿は平安時代の姿により近づけた構造になっているそうです。
そして萩戸は、どんな機能を持つ部屋なのかはっきり分からないのですが、天皇のよりプライベートな空間だったようです。この部屋には計8面のふすまがあり、2面がワンセットで、北西側の2面が更科の里です。右上に方形の枠が施されていますが、ここに和歌が詠まれ、それをモチーフに絵が描かれています(写真右のすだれの奥にふすま絵が見えますが、このふすまの向こう側に一つ部屋があり、さらにその奥の部屋が萩戸になります。一般見学者は中に入ることはできません)。
和歌は<おばすてのやまぞしぐれる風見えてそよさらしなの里のたかむら>。
「たかむら」は、竹林を意味する「竹群」のことなので、姨捨山のふもとのさらしなの里は秋が深まり、竹林は風にそよぎ、雨に濡れていると解釈できます。晩秋のさらしなの里の風情が詠まれています。
この歌を詠んだのは飛鳥井雅典という公家です。飛鳥井は江戸幕府が政策を実行する際の許可を天皇からもらうための取り次ぎ役「武家伝奏」という役職を担い、近藤勇らの浪士グループを「新撰組」と名づけた人物だそうです。絵は大和絵の名門、土佐派の土佐光清が描きました。公家が詠んだ歌をモチーフに絵を描くのは平安スタイルだそうです。これを知って思ったのは、ということは平安時代も更科の里は萩戸に描かれていたのか、という疑問です。
孝明、明治両天皇も
各地の名所を題材にしたふすま絵は10世紀初頭には成立していたということです。10世紀初頭というのは日本初の勅撰和歌集「古今和歌集」が編纂されたころです。今のようにだれでも各地に旅ができるという時代ではありませんでしたから、古来歌好きの日本人は実際に現地を訪れたことがなくとも、ふすまなどに描かれた名所絵によって自分の想像を膨らませ、歌を詠んでいました。
天皇の住まいに更科の里が描かれていれば、それは話題になったでしょう。ただ、天皇のよりプライベートな部屋である萩戸のさらに内側のふすまの絵なので、めったに見ることはできなかったでしょう。当時の公家の教養は何よりも歌を詠むことでしたから、見てみたいという欲求は余計強まったはずです。絵を見れば、実際の風景ではなくともイメージは膨らみます。
ただ、平安時代も更科の里が萩戸にあったという証拠を探そうと思って、文献をいくつか当たったのですが、裏付ける記述は今のところありません。さらに調べなければいけない課題です。一方で、確実なことがあります。幕末の再建ですから、当時の孝明天皇、さらに明治天皇も旧江戸城に引越しするまでは御所の住人でしたので、見ていたと思われます。
宮仕えの特権
確定的ではないことを前提にさらに推測するのにはちょっと慎重にならなければなりませんが、「更級日記」の作者である菅原孝標の娘も、この絵に影響を受けた可能性があります。彼女は天皇家の女児に仕える仕事をしていました。いわゆる宮仕えです。
彼女が御所で仕事をしていたことの証拠となる記述が日記の中にあります。源氏物語に登場する女性が住んでいた御所内の部屋としてよく知られる「藤壺」で、ほかの宮仕えの女性たちと月を見ながら話をしたエピソードを記しているのです。藤壺は清涼殿の北にある建物で、廊下でつながっています。天皇の子どもの世話をするのが彼女の仕事でしたから、萩戸に入るチャンスがあっても不思議ではありません。そうした特権が宮仕えの仕事にはあったかもしれません。
孝標の娘はこの宮仕えを辞めてから日記の執筆に取りかかりました。また、宮仕えを辞めた後、信濃国に長官として単身赴任した夫が無念にも病死してしまいます。源氏物語が大好き、恋愛など胸がドキドキするような人生を望んだのが孝標の娘ですが、実際はそうはいきませんでした。今風に言えばセレブ願望の強い女性だっと思います。
自分の来し方と晩年の不遇をしたためたのが更級日記です。彼女は筆を進めているとき、さらしなの里と姨捨山が描かれた萩戸の絵のことを思い浮かべたのではないか―京都御所に「更科の里」のふすま絵があるのを知り、そんなことを想像をしました。

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