89号・初代村長の信毎「村おこし」投稿

  更級村初代村長の塚田小右衛門(雅丈)さんが、古来、詩歌に詠まれてきた姨捨山は冠着山であることを世に訴えた論文があります。タイトルは「実の姨捨山」。明治22年(1889)に地元の信濃毎日新聞に投稿して掲載されたとは聞いていたのですが、ようやくその記事を見ることができました。長野県立図書館が導入した信毎のデータベース検索システムでコピーも手に入れることができました。
姨捨山だった長楽寺
 当時の信毎はは全4ページ、各ページ4段で構成され、「実の姨捨山」は400字詰め原稿用紙換算で約8枚と長い投稿だったので、3月9、10日、前編と後編に分け、それぞれ3ページの中段に掲載されました。写真は9日の紙面です。20日ほど後の4月から明治政府の市町村合併政策にしたがって全国的に近代的な自治体が成立するのですが、3月の時点では当地はまだ羽尾、須坂、若宮の3村が並立していました。
ただ、そのときにはすでに雅丈さんが主導して3村が一緒になった後の新しい村の名前を「更級村」とすることを決めていました(シリーズ13参照)。「実の姨捨山」は冠着山の歴史をちゃんと明らかにすることによって、当地の存在を世間に知らしめるという村おこしも狙ったものでした。
今では冠着山の別名が姨捨山であることに異論を唱える人はそんなにいないと思いますが、明治の初めまで姨捨山といえば、世の中の人には巨岩の姨岩の鎮座するお隣の八幡村(現千曲市八幡地区)の長楽寺一帯だと思われていました。
執拗な論証
「実の姨捨山」の中で雅丈さんは、さまざまな証拠をもとに姨捨山としての冠着山を復権させようとしています。主張の要旨は、長楽寺一帯ではそもそも平地に近すぎて山と呼ぶには不自然にすぎるということです。
明治天皇が明治11年(1879)に旧更級郡に巡幸した際には、従者の高官が「長楽寺一帯は古人が歌を詠んだ場所とは思えない」という趣旨の発言をしたと紹介しています。「有合の山ですますや今日の月」と、そのにぎわいのすごさ詠んだ一茶の句を引いて、当時の人たちの勘違いの様子を指摘しています。
さらに雅丈さんは古来の和歌を引き、姨捨山はやはりちゃんとどっしりとした山が詠み手にはイメージされていたことを明らかにします。
一つの歌は「信濃なる富士とみゆらん冠着の峰に一夜の月を見んとは」。これは平安時代末期の西行法師の作で、信濃の国の富士山とも言える冠着山の頂上で、名月を見てみたいものだという意味です。この場合の冠着は姨捨山と認識されていたことを示しています。
さらに、百人一首の選者でもある藤原定家と並ぶと称された鎌倉時代初期の歌人、藤原家隆が詠んだ「更級や姨捨山の高嶺より嵐を分けて出づる月影」。強い風が吹いた夜、更級の姨捨山の峰辺りから雲を掻き分け月が現れたという光景を詠んだものですが、これも姨捨山は冠着山と考えれば歌の意味が理解しやすくなります。
執拗な論証の理由は裏返せば、それだけ姨捨山としての冠着山の存在が埋没してしまっていたからです。これは松尾芭蕉が1688年、長楽寺を訪れて「俤や姨ひとりなく月の友」の句を残したことが影響しています。「蕉風復興」運動の一環として加舎白雄が1769年、巨大な「面影塚」に刻んだことが大きなきっかけになって(シリーズ80を参照)、全国の俳人が訪れる一大観光名所にもなっていたことが大きいと思われます。そのにぎわいはほんとにすごかったのだと思います。そうでなければ、新聞にまで投稿はしなかったと思います。
雅丈さんは論文の最後に自らが作った二つの和歌を添えて投稿を締めくくっています。
時来れば空に覆ひし雲晴れて  月影さとし姨捨の山
    君が代に月の都といふべきは  この更級の姨捨の山
 冠着山が古来の姨捨山であることがはっきりするときが必ず来る、そのときは空の雲も晴れ、冠着山の姿が清く、くっきりと浮かび上がるだろう―文学的な締めくくりです。
村づくりの闘い
 雅丈さんはこのほかにもさまざまな取り組みを経て、明治末には、冠着山の市に「姨捨山」と表記される地図も現れるようになりました。
さてでは長楽寺は姨捨山ではないのかという疑問です。雅丈さんは「実の姨捨山」で、長楽寺の法師や一帯を訪ねた俳諧師たちが「怪説」を広めたと批判していますが、長楽寺一帯が多くの人たちに姨捨山と思われていた時代があったのも事実です。どちらが本当の姨捨山ということではなく、大事なのはどちらも人間の営みの歴史の中では、姨捨山であるということです。
雅丈さんの論文には今から見ると、限界も感じますが、それも一つの歴史です。投稿したとき雅丈さんは41歳。合併後の新しいづくりのために闘っていたのだと思います。
それにしてもよく信毎がこの論文をこれだけの紙面を使って載せたと思います。論文のはじめには、なぜ雅丈さんの投稿を掲載したのかという編集者による説明(中央四角枠の右半分)があり、読者に提供するに値する内容だからという趣旨のことが読み取れます。  雅丈さんの投稿が載った3月9日の紙面の2ページには社説として「内閣更迭論」が展開されています。明治22年は大日本帝国憲法が制定された年です。
4ページ(上の紙面の左)には「更級郡有志に告ぐ」という広告もありました。第2回懇親会を御幣川村の実昌寺で開催するとのお知らせです。幹事として青木島村の柳島鉄之助さん、稲荷山町の小出八郎右衛門さん、八幡村の西澤貞治さんらのお名前が載っています。中段に見えるのはビールの宣伝です。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。