91号・明治に描かれた八王子山の大軸

  シリーズ90で紹介した千曲市芝原地区(旧更級村)の豊城隆雄さんのお宅には、明治のはじめに描かれた「八王子山」の大軸も伝わっています(左の写真)。襖1枚分に相当する大きさです。八王子山は尾根伝いを登って行くと冠着山(姨捨山)の頂上につながり、旧更級村の玄関にあたる山でもあります。
 この掛け軸は佐良志奈神社から上山田温泉に通じる「明治新道」の完成を祝って描かれたと思われます。手前が千曲川の流れ、その河岸に切り開かれた石垣の道が明治新道です。芝原地区に江戸時代の文化2年(1805)に生まれた中村林左衛門さんが一念発起して、旧更級郡域を中心にたくさんの人々から寄付金を集めてつくりました。明治11年、明治の先駆けの時期にできたことから明治新道と呼ばれました。
 現在は車道になっていますが、明治はじめまでは断崖絶壁で千曲川の波が打ち寄せていました。このため佐良志奈神社側と上山田地区を行き来する場合は、岩肌に切り開いた道を上り下りしていました。万治元年(1658)につくられたため万治峠と呼ばれていました。しかし、右の写真をご覧ください。現在の上山田温泉を望んだものですが、急峻で切り立った崖で樹木も育ちにくいところだったので、よく落ちて死傷者が出ました。
 当時、中村林左衛門さんのお宅は蚕の卵である蚕種を育てており、この崖の下側付近にある畑で蚕の餌にする桑を栽培していました。この一帯は、人家に遠く強い風が当たるところであったため害虫が発生しないので、貴重な農地でした。桑の葉を一杯に詰めた背負子を背中に万治峠を上り下りし、さらに家のある芝原地区まで往復約四㌔。大変だっったと思います。 
 林左衛門さんは子どものころ、お父さんの甚右衛門さんと一緒に桑を背負って運ぶとき、「お前が崖下にいつか道をつくれ」と言われていたことを70歳を過ぎた晩年、実行したそうです。林左衛門さんは日本各地を旅しふるさとに戻ってからは、旧更級、埴科両郡域で「心学」と呼ばれる倫理・道徳や読み書きを教え、門弟が各地にたくさんいたため、多額の寄付金を集めることができたのでした。当時の金額で約2350円。この額が今のどれくらいの金額に相当するのかはっきりとは分かりませんが、明治15年の時点で更級小学校の1年間の「学費」が1400円ですから、学校運営費の2年分近くとなります。
 断崖絶壁をツルハシで砕き、その岩を河岸に落として土台にし、道を築いたのでした。これによって人、馬、荷車、さらに大正時代以降は乗り合いバスも走るようになり、現在の上山田温泉の発展がなりました。当地の産業、経済、文化の交流を盛んにする大動脈を、林左衛門さんたちが切り開いたのです。大正橋を渡って来る人たちにとっては、旧更級郡に入っていく玄関にもなりました(林左衛門さんについてはシリース44でも触れています)。
 もう一度、掛け軸の写真をご覧ください。明治新道の上に斜めに登る道があります。これが万治峠につながる道でしょうか。その上部に見える屋根は現在の八王子社と呼ばれる神社だと思われます。このあたりにつながる道が万治峠の道という人もおり、いつか実際にだどって明らかにしたいと思います。
 必ずしも実景を映したものではないと思いますが、当時の様子がうかがえます。現在の大正橋側のたもとの部分に建っている大きな石碑は何でしょうか。今、車道沿いには多額の寄付金を出した人たちの名前を刻んだ石碑があります(上の写真の手前)。これは明治新道開通直後に建てられたので、この碑を参考にしたかもしれません。掛け軸の石碑の奥に佐良志奈神社の屋根が見えます。
 この掛け軸には、右上に明治新道が開かれたいきさつを解説する「若宮村明治新道の記」という文が添えられています。末尾にこの絵を描いたと見られる人の名前が記されているのですが、どんな人なのかまだ分かりません。また、この軸がどういういきさつで描かれ、隆雄さんの伝わったのかはっきりしたことは分からないそうです。ただ、隆雄さんのお宅には曽祖父の源之助さんが明治新道開設ため、10円という多額の寄付をしたことに対して県から受けた感謝状が伝わっています。
 なお、八王子山の名前の由来です。天皇家が二つに分裂した今から約650年前の南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の子どもである宗良親王が信濃国での勢力拡大を目指した際、この山の洞窟も拠点にしたとの言い伝えがあるのですが、この宗良親王が八番目の皇子であるという説があることからついた呼び名と、佐良志奈神社宮司の豊城憲和さんはおっしゃっています。

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