92号・更級の聖地、郷嶺山

  文化・芸術を楽しむ旧更級村(さらしなの里)の住民グループ「更級人風月の会」が集まりを持つ一つのスポットが郷嶺山(千曲市羽尾地区)です。この山は地元のみなさんの整備などによって味わいのある表情を見せるようになっています。
 天空の城
 左の写真は4月中旬(2009年)、旧更埴市と戸倉町の境から少し下った羽尾5区で撮影したものです。葉がまだ茂っていないので姿がよく見えます。右後方に冠着山がそびえています。そばなどを食すことのできる「さらしなの里展望館」(左の赤屋根)のある一帯は、天空に浮かぶ城のように見えました。下の写真は吉野地区の田んぼから冠着山を背景に入れたさらしなの里展望館です。
 もう一度、左の写真をご覧ください。右の瓦屋根の建物が「更級観月殿」。シリーズ51で紹介したように初代村長の塚田小右衛門(雅丈)さんが当地の村おこし運動の一環でつくったもので、現在の建物は二代目です。さらしなの里展望館との間には姿のよい赤松の大木群が見えます。
 この赤松の立派さがきわ立っています。当地でもこれだけの赤松がまとまっている所はほかにないと思います。昨年、松くい虫にやられて枯れた一本の松があり、被害が広がらないように切り倒された後に年輪を数えてみました。目視できるだけで年輪が二百はありました。
 この場所には枯れた松より太い松が残っています。当地では最も太い松の一本です。これは更級観月殿ができる前からなんらかの思いを込めて、大事にされてきた証拠です。小右衛門さんが生きた明治時代以前、この場所がどのような意味を持っていたのかが分かる資料はまだ見つかっていないのですが、明治以降の燃料不足の時代も薪にされず、この一角だけ立派に松が守られてきたということは、江戸時代からここが観月のスポットでもあったことを示す一つの証拠かもしれません。
 昨年10月、さらしなの里展望館で「更級人風月の会」の集まりがあった際、千曲川を挟んで対岸の鏡台山あたりから上ってくる満月を見ることができました。上がり端の月は燃えるように赤く、感嘆の声が上がりました。
 里を見守る孝子観音
 郷嶺山の山頂にはユニークな碑があります。昭和36年(1961)、姨捨孝子観音を建立するときに併設された石碑「姨捨孝子観音由来之碑」です。この観音像は作家の深沢七郎さんが発表した「楢山節考」の影響で、旧更級村は「親不孝な人間の村」と言われたため、旧更級村生まれの東京在住者らでつくる「東京更級会」のメンバーが中心になって、それを払拭するために建立したということです。
 石碑の表面には、他国から投げかけられた難問を老人の智恵で解決したという物語が記され、裏面にその難問の答えが「碑文難問題解答」と題して刻まれています(上右の写真)。姨捨孝子観音は冠着山の麓に広がる旧更級村を見守るように建てられ、参道の階段から見上げると、大空が背景にあり、神秘的な感じがします。
 山頂にはほかにシリーズ53で紹介したように塚田小右衛門さんの功績を顕彰した碑があります。苔むした句歌碑もあり、味わいが時を経るとともに増しています。俳人の松尾芭蕉が訪ねて有名になったお隣、千曲市八幡地区の長楽寺とは別に、「更級」という言葉と姨捨の不即不離の関係を濃厚に感じさせるスポットです。
 郷嶺山の県道端の入口には「更級観月殿案内」と刻んだ石碑も建っています。更級という言葉の持つ歴史文化の厚みを明らかにし、更級村という村の名を残した小右衛門さんのおかげで、更級郡が消滅しても、その歴史をたどれるような仕掛けが残りました。郷嶺山は「更級の聖地」であると言っていいと思います。
 なお、郷嶺山の呼び名の由来ですが、冠着山頂にある冠着神社の里宮としても崇められる歴史のある場所なので、文字にすると郷の嶺とも記され、やがて音読みで「ごうれい」となった可能性もあるのではないかと思います。以上を踏まえ、「郷嶺松」と題した詞を作ってみました(上の写真の中)。「更級人風月の会」企画委員で、謡曲のお師匠さんでもある清水和二三さんにいつか謡ってもらいたいと思っています。

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