137号・もっと注目されていい鏡台山

 鏡台山。この山があって初めて名実ともに当地が「月の都」と呼ばれる根拠を得たのではないかと思います。千曲川を挟み旧更級郡の対岸、旧埴科郡にある山で、さらしな・姨捨と鏡台山に囲まれた奥行きのある「月の光空間」を作り上げたのです。月の都を最も美しく演出してきたのが「鏡台山の月」で、北峰と南峰の間のくぼみから現れる月を言います。(シリーズ99など参照)。それにしてもあの山を、よくぞ「鏡台」に見立てたものです。
 心を映す鏡
 鏡台は字義通りには鏡と鏡を載せる台座のことですが、あの山を鏡台に見立てた背景には、仏教の影響があります。「月は自分の心を映す鏡」という考え方が日本に定着していなければこの命名はありませんでした。あの山に現れる月を見ると、自分の本当の姿を見ざるを得ないほどに素晴らしい、姿を映すのは鏡だから月は鏡、その足元の山は台座で、合わせて鏡台―と連想した可能性があります。「鏡台」という名の山は当地以外にはあまりないようで、この命名は大陸から伝来した仏教が日本人の心に沁み込んでいった歴史の上に成り立ったものであると思います。
 月は死後の極楽浄土の主宰者である阿弥陀如来のイメージとして平安時代に京の都で定着しました。阿弥陀様は山の峰の間からお迎えに来る、山の向こう側に極楽浄土があるというイメージです。山の奥に死者がいるという極楽浄土観を日本に打ち立てた僧、源信の強い影響がありました。この源信の思想が具体的に表現されたのが左の「山越阿弥陀図」(京都の禅林寺所蔵、詳しくはシリーズ106)です。
 「この世をばわが世ぞと思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の和歌で知られる平安時代中期の天皇の側近、藤原道長とその息子の頼道も源信のこの思想の影響を受け、阿弥陀如来にすがって死を迎えようとしました。道長は法成寺(後に火事で廃絶)、頼道は平等院をそれぞれ建立し、阿弥陀如来(写真中央は平等院のもの、国宝)の仏像を安置しました。
 仏教美術の研究者によると、二人は阿弥陀如来像を満月をイメージして作りました。光背や施された金箔を見ると、太陽のような感じを受けますが、そうではありません。もともと伝来した仏教では極楽浄土は太陽が沈む西のかなたにあると教えていましたが、道長たちはすでに山の端に現れる月に阿弥陀如来を見立て、山中にあの世があると考えるようになっていたのです。これは京都が山に囲まれた盆地であったことが背景にあるようです。
 阿弥陀如来の月の見立てはその後、今年それぞれ800回忌、750回忌の法要がある法然と親鸞による布教でさらに広がりました。二人の功績は阿弥陀の名前を唱えれば誰でも極楽浄土に往生できるという信仰を広めたことです。法然が先に実践し、親鸞がそれを深めました。それぞれの弟子、門徒が一派を作ったことで浄土宗、浄土真宗の区別がありますが、先駆けの浄土宗の寺などに「山越阿弥陀図」の軸が多く伝わっているようで、山の峰の間に現れる月を阿弥陀如来に見立てる歴史の古さを裏付けています。
 山越の月
 峰の間にくぼみのある当地の山の「鏡台」という命名もそうした歴史の延長にあり、そこに現れる月の美しさを世に示した一つが左上の絵はがきです。大正か昭和の初めころ、現在の姨捨地区からの光景です。やや月が大きいので紙に焼く際に加工したようです。暗室で月の部分だけ気持ち大きめに光を当てず、紙の色を残したと思われます。そのような加工が施されたのは、そこまでさせるほどにくぼみから上る月の美しさが当時、日本で知られていたことの裏返しです。肉眼での感激に近く月を見せるための細工です。
 その下の写真は2009年の中秋、姨捨駅からちょうどくぼみに上がる場面をとらえたものです(森政教さん撮影、シリーズ104など参照)。「山越阿弥陀図」と比較してみてください。私たちも源信や藤原道長たちがイメージした阿弥陀如来の来迎と同じ構図の月を眺めていると言っても言い過ぎではないような気がします。平等院を建てた藤原頼道とほぼ同じ時代を生きたのがシリーズ40、47などで紹介した「更級日記」の作者、菅原孝標女です。彼女は晩年、阿弥陀如来が枕元に現れる夢を見て死への安寧を得たのですが、彼女にも月を阿弥陀如来に見立てる発想があったことが濃くうかがえます。
 希少価値
 では、だれがいつ鏡台山と見立てたのか。姨捨文学研究者、矢羽勝幸さんの著書「姨捨山の文学」を開くと、鏡台山という言葉は江戸初期の和歌俳句には出てきているので、そこまではさかのぼれます。「さらしな・姨捨の月」を想像して和歌を詠んでいた人が多い平安時代と違い、実際に自分の足で旅する人が増えた江戸時代に鏡台山が発見されたとしても不思議ではありません。長楽寺などさらしな・姨捨の高台からある年の中秋、対岸を眺めた人たちの目に、なだらかな長い稜線を従える二つの峰の間から上がる満月が見えたのかもしれません(毎年くぼみから上がる訳ではないのも希少価値を高めています。右下の版画絵図は江戸時代、さらしな・姨捨を代表する景観を記した姨捨十三景図。左上に鏡台山の月が描かれています)。
 当地の景観の素晴らしさを世に訴える新たな局面をつくった「鏡台山」は、「姨捨山」の命名に勝るとも劣らないネーミングのセンスです(姨捨山の命名由来はシリーズ33、34)。「月の都」を一望できる高速道路の姨捨サービスエリアにも鏡台山の案内標識があればもっといいと思います。

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