更旅69号 信濃守で赴任した更級日記作者の夫

 菅原孝標女の夫は信濃守として信州に赴任したことがありました。守とは行政長官、現在で言えば県知事のような立場で、平安時代は都の京から貴族階級の男性が派遣されました。守が仕事をする場所が国府と呼ばれます。孝標女の夫の時代である11世紀中ごろは、現在の松本市にあったと考えられていますが、それより先、一番初期の国府は現在の千曲市屋代、雨宮地区(旧埴科郡)にあった可能性が指摘されるようになりました。
 上信越自動車道の建設に伴って1994年に行われた発掘調査で、それを裏付けてもいいような遺跡が出てきたのです。その代表が「更科」の文字が墨で記された木簡です木簡はまだ紙がとても貴重な時代、役所間で情報を共有しあう道具として用いられました。
 この木簡には「府更科郡司等…」(写真左)と記されています。府は信濃国府のこと、「更科郡司等」は国府のもとで現在の郡規模で行政を司っていた更科郡をはじめ北信濃の郡の長官のこと。つまり、国府から出された指令が更科郡から水内、高井を回って埴科の郡役所に届いたと考えられています。どんな指令だったかは、この木簡自体が用を終え、現在で言えば公文書がシュレッダーにかけられるように、裂いて廃棄されたものなので分かりません。ほかにもそうした木簡がいくつも出ているので、廃棄された場所の屋代、雨宮両地区に信濃国府があったとも考えられるのです。木簡は総称して屋代木簡と呼ばれます。
 屋代木簡が見つかるまでは、初期の信濃国府の所在地は松本ではなく上田と考えられていました。全国的に国府は、平安時代の前の奈良時代、聖武天皇の命で国家平安を祈願して各地に建てられた国分寺の近くにあることから、信濃国分寺遺跡が見つかった上田市国分地区に推定されたのです。
 しかし、屋代木簡は七世紀後半、聖武天皇の命より早い時期の遺跡から出ているので、上田の前に国府が屋代、雨宮地区にあったと考えてもおかしくはないのです。
 また、屋代木簡出土を記念したシンポジウムの報告書「今よみがえる信濃の古代」の中で岐阜大学の早川万年さんは、中央政府である朝廷が信濃を日本海側の蝦夷に対する軍事拠点と位置づけていたと指摘しています。となると、越後へと抜けるルート沿いの屋代に国府があったとしても不思議ではありません。
 国府の所在地が時代ととも移転したのは確実です。推定地とされる松本、上田、屋代で共通しているのは、いずれも古代は東山道という国道沿いだったことです。東山道は租庸調などの税をはじめとする物や情報を、都と地方間を往来させる道としてとても重要でした。
 一番初期の国府が屋代にあったとすれば、当時の役人たちは姨捨山(冠着山)越えをしていたことが確実です。孝標女の夫の赴任先の国府は松本に移っていましたが、「遠い昔の国府は姨捨山の向こうにあったのだ」などと、役人や妻の孝標女との間で更級・姨捨を話題にしていた可能性もあります。
 木簡の写真は「上信越自動車道埋蔵文化財発掘調査報告書23」(長野県埋蔵文化財センターなど発行)から複写しました。この木簡は国府から出された木簡としては全国初で、国府木簡と呼ばれています。古代の役人の執務風景を示す中央のイラストは、上田市立信濃国分寺資料館発行の「東国の国府」からお借りしました。

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