148号・千曲川が生んだ恋の歌

 今から千三百年近く前に編まれた日本最初の和歌集「万葉集」。この中で千曲市とゆかりが深い歌は次の一首です。

     信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ

 あなたが踏んだ千曲川の河原の小石を、わたしは宝石のように大事にします―という意味です。ういういしい恋の歌だと思ってきましたが、この歌にまつわる二つのエピソードを知り、この歌は当地にとって、かけがえのない宝物だと認識をあらためました(この歌を以下「玉石歌」と表記します)。

 地元の愛着が凝縮

 この歌を刻んだ歌碑が戸倉上山田温泉の千曲川河畔堤防道路沿いにあるのですが、まずその歌碑にまつわるエピソードです。読売新聞の記事(2008年12月1日付け)で知りました。記事によると、先の太平洋戦争の前、万葉集の歌碑を作る話が当時の上山田村長で歌人でもあった山崎等さんから持ち上がりました。当地の冠着山(別名・姨捨山)のふもとに南北朝時代、騒乱を避けやってきた僧、成俊の庵に後醍醐天皇の皇子、宗良親王が訪れて万葉集を与え、成俊はそれをもとに研究にいそしんだという言い伝えがあることからの企画だったようです(成俊や宗良親王についてはシリーズ6、75など参照)。

 当時、上山田小学校に併設された職業訓練校に、万葉集研究の第一人者だった国文学者、佐佐木信綱さん(故人)の弟子で歌人だった清水信雄先生が赴任したことから、佐佐木さんに依頼することになりました。佐佐木さんは上山田周辺には玉のような石があるとして、「玉石歌」を選び出しました。万葉集の歌はすべて漢字で書かれており、「玉石歌」も元の漢字の通りに佐々木さん筆で書いてもらいました。その書を銅板にして埋め込んだ歌碑は1937年に建立予定だったのですが、太平洋戦争に突入したため、銅板も銃などの軍用品に鋳直されと思われました。しかし、戦後、この銅板が突然姿を現し、歌碑は1950年に完成しました。それが右の写真です。

 上山田小校長などを務めた郷土史家の柳沢穂積さんによると、銅板を守ったのは清水先生だそうです。後に同小のある式典会場で隣り合わせたとき。銅板の件を尋ねると、清水さんから「小学校の物置に隠した」と明かされたとそうです。

 この歌碑に向かって右側にははもう一つ同じ「玉石歌」を刻んだ碑があります。左上の写真です。やはり現代の万葉集研究の第一人者である犬養孝さんの書によるもので、旅館「佐久屋」さんが犬養さんに依頼して書いてもらいました。その書を石に刻み、敷地の入口に置いていたものですが、佐久屋さんは2009年に廃業したため、この場所に移されました。時代を越えて注がれてきた玉石歌への地元の方々の愛着がここに凝縮されています。

 観音様のお告げ

 もう一つ、「玉石歌」が当地の宝であると思うようになったエピソードは民話の成立です。

 きっかけは「更級埴科の民話」(著者・浅川かよ子さん、信濃教育出版部発行)という本に収載の「恋しの湯」を読んだことです。要約すると、主人公は千曲川のほとりに住む優しく美しい娘と隣村の青年。恋人同士になったのですが、青年は江戸に稼ぎに行ったきり戻ってきません。ある日、娘の夢に観音様が現れ、千曲川の河原にある赤い小石を百個拾って供えれば青年は帰ってくるだろうと告げました。

 娘はそれから毎日河原に出て赤い小石を探しました。 99個に見つけましたが、最後の1個が見つかりません。すると、白いひげの老人が現れ、河原を指差します。そこからは湯気が噴き出しており、湯の底に赤く光る石がありました。娘がその小石を観音様に供えると、青年は帰ってきたのでした。そして「これが戸倉上山田温泉のはじまりです」と締めくくっています。

 「いい話だな」と思って、この民話について調べているうちに、千曲市観光協会のホームページで、上山田地区に伝わる「恋しの湯伝説」という記事を見つけました。この記事によると、この伝説には「玉石歌」がストレートに引用されています。娘は、夢に現れた老人に「「そちは『信濃なる千曲の川のさざれ石も』という歌を知っておるかな」と尋ねられたのに対し、「はい。万葉集の『信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ』と教わりました」と答えことから、老人は感心し恋人の帰郷につながる100個の小石集めをアドバイスしたことになっています。

 「更級埴科の民話」収載の民話は、この伝説が再構成されていると思われます。温泉街の近く、千曲川を渡す「大正橋」の歩道には、この伝説にちなんで作った赤色の小石がいくつも埋め込まれています。左下の写真です。

 サ行の音のすがすがしさ  

 「玉石歌」の魅力は、サ行の音が醸し出す、すがすがしい響きにもあると思います。「信濃なる=shinanonaru」の「shi」、「さざれ石=sazareshi」の「sa」と「shi」、「君し=kimishi」の「shi」。さ行の音が純粋さをイメージさせることはシリーズ72で触れましたが、この歌にもそれが当てはまらないでしょうか。

 「君し踏みてば」の「君し」の「し」は強調するときに添える言葉として万葉集の中の歌ではたくさん使われています。「何かをしなさい」というときに「○○すべし」という現代の言い回しにも通じると思います。「し」の音を始めとするサ行の音の清れつさな響きになじんでいた当時の知識人たちが、「さらしな」という辺地ではあるけれど、音の響きが美しくそこに現れる月が白くで美しいという評判が都で広まったのではないでしょうか。 初恋のういういしさともぴったりです。

   戸倉上山田温泉街も旧更級郡。「さらしな」という言葉を盛り込んだ和歌では「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(「わが心歌」)を収載した古今和歌集がよく知られていますが、万葉集はこの和歌集より約150年前の成立。ただ、万葉集では、「さらしな」の地名はまだ出てきていないようです。その理由について想像を膨らませると、「玉石歌」の魅力に誘われ多くの都人が当地にやってきた、その一人が「わが心歌」を詠んだ、それが古今和歌集に収載され、当地の月のすばらしさが知れ渡っていったのではないか…。

 千曲市の観光キャッチフレーズは「芭蕉も恋する月の都」(シリーズ102)。芭蕉のお伴をした越人にも芭蕉が絶賛した恋句があります(同127)。姨捨駅を舞台にしたスイッチバックの恋もあります(同24、126)。中央上の写真は、大正橋から望む温泉街、下は温泉街の背後にそびえる城山から撮影した絵はがきです。昭和中ごろの光景ではないでしょうか。

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