九条良経が「さらしな」を再発見

 2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」の記憶が残っているうちに、書いておきたいと思いました。「さらしな」という地名の白色イメージが強調される和歌が、ちょうどドラマで描かれた時代の平安末期から、鎌倉時代初めに詠まれるのです。

 その詠み手は、更級への旅新聞163号で紹介した九条良経(くじょう・よしつね)。大河ドラマの中で清盛と対立する公家(くげ)として、たびたび登場した藤原兼実(ふじわら・かねざね、ドラマでは相島一之さんが演じた)の後継ぎです。良経はドラマには登場しませんが、平氏が滅んだあと、天皇を補佐する側近となり、日本最古の歌集「万葉集」以来の優れた和歌を集めた「新古今和歌集」の編さんに深くかかわった和歌の実力者です。その良経がさらしなの白色イメージを強調してつくった歌のひとつが次です。

  さらしなの山の高嶺(たかね)に月さえてふもとの雪は千里(ちさと)にぞしく

 一面に雪が降って真っ白になったさらしなの里。その里にある姨捨山の上空には月が白く輝いている。なんと神々しい景色であることか…。良経が実際に当地に来たとは考えられないので、雪の白さと月の白さ、さらに、さらしなの里のの地名が抱かせる白色イメージを重ねた純白の情景を思いうかべ、詠んだと思われます。

 さらしなの里の白さがこのようにイメージされるだけでもありがたいのですが、良経はそのさらしなを、奈良の吉野と同列にあつかって雪の白色が映える場所だという歌もつくっています。

  雪白きよもの山辺(やまべ)をけさ見れば春のみ吉野秋のさらしな

 吉野といえば桜の花の美しさで知られる山岳地帯。一面に降った京の都の雪景色を見ながらその純白の美しさを、春先の花の美しい吉野と、秋の月が美しいさらしなを重ね合わせることで強調しているようです。吉野は良経の時代、花に加えて霊的な力が得られて大きな仕事の後押しをしてくれる神聖な場所としてうけとめられ(今でも修験道のメッカで、そのために世界文化遺産)、当時のスーパーパワー国家、中国とつきあうため、「日本」という国家の礎を築いた天武(てんむ)天皇の活動の原点となった地でした。

 公家にとってやっかいだった平氏が滅んだとはいえ、政治の実権は源頼朝を棟梁とする武士に移ってしまったことを良経はにがにがしく思い、吉野が天皇とともに公家が国家を運営する原点の地でもあることを再確認していたはずです。当時の歌詠み人たちの間で、もっともあこがれられた一人、西行の死に場所でもあったので、よけい吉野には思いいれがあったと考えられます。

 良経にとってそんな深い思いいれのある「吉野」と、都からはるか遠くの東国のいなかの「さらしな」を組みあわせることで、花と月に代表される公家文化が育んできた崇高な白の美を強調したのが先に紹介した和歌なのです。当時は歌を詠むことが一流の為政者の証しでもあった時代なので、吉野と対等に並べられた「さらしな」について、それまでは姨捨山という言葉が想起させるイメージが強かった人たちも、さらしなの白さをより強くイメージするようになった可能性があります。

 「平清盛」を見ていて、以上の解釈はあながち的を外れてはいないと思いました。良経のお父さんの藤原兼実は、清盛の動乱の中で奈良の東大寺を焼失させてしまったとき、「もしわが寺、興復せば天下興復し、わが寺、衰弊せば、天下衰弊す」という国家安泰のために東大寺を創建した聖武(しょうむ)天皇の言葉を引用し、平氏を糾弾しています。実際にその通りに兼実がふるまったかどうか分かりませんが、兼実が聖武天皇のこの言葉を大事にしていたのは事実で、公家としての兼実が日本の歴史文化をになっている自負を強烈に感じさせます。良経もこうしたお父さんの後継者としての責任感を持っていました。

 平氏と源氏の戦いのさなか、良経もたくさんの混沌を見てきたはずなので、より純白で崇高なものを求める気持が、「吉野」と「さらしな」をセットにする歌の創作、新しい美をつくりだすことにもつながったのではないかと思うのです。それが、長野県軽井沢町追分にある道標(道しるべ)の文言「さらしなは右・みよし野は左にて・月と花とを・追分の宿」につながっていったのではないかとも思うのです(追分の道標については更級への旅新聞17号参照)。

 (注)親子でありながら兼実と良経の苗字が違うのは、兼実が後に、九条家という一門を自ら創始したためです。大河ドラマでは「九条」とすると分かりずらいので、天皇を歴代補佐する立場の貴族の一門である「藤原」を使ったと思われます。