更旅224号・ブラジルの更科(旧姓)さんのお手紙

更級への旅・野澤由紀子さんsamuneiru 「更科」という姓に生まれたブラジル・サンパウロ在住の女性がいらっしゃいます。野澤(旧姓更科)由紀子さん。新潟県燕市の更科家のご一族で、ご自身のルーツをだどって、さらしなの里がある長野県千曲市にも2007年においでになりました。その折り佐良志奈神社でさらしな堂制作の「古今さらしな集」をお買い求めになったのがご縁で、お手紙やメールのおつきあいをしていただいています。最初にいただいたお手紙が大変感動的で、野澤さんのお許しを得て掲載しました。さらしながワールドワイドであることうれしくなります。まだ、お目にかかったことはありません。再来日して当地にも立ち寄りたいとおっしゃっています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。

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 初めてお便りさし上げます。古今さらしな集を拝見してすぐ筆を取りました。私は旧姓、更科由紀子と申します。昭和十年の生まれで古希を過ぎました。ブラジルに移住して46年になり、現在サンパウロ近郊に住んでおります。今年は10月半ばに訪日し、帰って来たところです。

 私がさらしなを意識しだしたのは、戦前で物心ついた時でした。大学病院の先生が看護婦さんに代わって血液を採取する時でした。先生は「おまえは更科の末裔か。泣かないな」と言ったのです。幼かった私は首を横にふりました。中学時代の教科書に更科源蔵さんの「父」という詩が載っていました。その後、都立北園高校時代、国語や社会の先生方が私をつくづく見るのです。そして更級日記でした。どうしてもさらしなを意識せざるを得ません。古典に現れる名所を私は長年胸にしまっていました。

 父は若い頃から土器や矢じりなどの蒐集をしていました。戦後、疎開先の茨城では民族学の学会で、コツコツとやっていました。著書も何冊かありました。

 同時多発事件があった2001年、父は95歳で亡くなりました。その頃から私は自分のルーツを探したいと思っていました。100年前、故郷を離れて東京に出た祖父の本家を探しました。手帳にあった住所は番地がなかったので、燕市役所に問い合わせました。そして本家を訪ね、三条の菩提寺で父のお骨を永代供養してもらいました。

 私のイメージでは、信州信濃の山奥の…だったのですが、燕は越後平野の豊かな穀倉地帯に見えました。この本家は農地改革以前はかなりの地主だったように思います。現在当主は16代目になります。戦後すぐ、この人の祖父(14代目)が懸賞金をつけて家系図を探しだしたと記憶しています。また、本家から出たアイヌ研究家で詩人の更科源蔵によれば、元は一つの家系だということですが、更級家とは別のようですね。源蔵さんからは私も著書や手紙をもらっています。

 燕には戸隠神社もありましたし、私の曾祖母の姓が大塚だったり、母の姓が村上だったりと何ともいにしえの因縁がないといいきれません。最近分かったのですが、ブラジルで最初にお世話になった人が更級郡大岡村の方で小林さん(故人)という方だったのです。

 NHKのテレビドラマ風林火山が国際放送で見られるようになって半年ほど経ったころのことです。息子が「ママ、インターネットで聞けるよ」と言って、録音してくれました。千住明のサウンドミュージックを聞いているうちに、騎馬武者達がが駆け抜けていく姿が目に浮かびました。そして数百年前の人々が通り過ぎて行くような気がしたのです。私もリズムの鞍に乗って天空を駆け抜け、北アルプスの連峰を見上げたいと思いました。  地図を広げると、飛騨山脈のそばに大岡村がありました。新潟の燕から信濃川、千曲川、犀川とだどってゆけるのです。姨捨と田毎があるのが戸倉でした。ブラジルからどこへ行ったらよいのか、皆目分からないので、とにかく戸倉をマークしました。

 私達は10月半ば、成田に着きました。10月31日、仕事を終えた夫と名古屋で待ち合わせ、下呂の近くの加子母の知人の所に二泊し、中津川から松本に来ました。そこで駅の観光案内で相談して美ヶ原の王ケ頭ホテルへ向かいました。その日晴れる予報でしたのに、山頂は、濃霧でがっかりでした。すると夜中を過ぎて時々月がぼうっと現れるのです。カーテンをひいて眺めていますと、次第に霧が晴れてゆき、とろりと溶けそうな月が輝いていました。その銀色の月の光の中でいつか幸せに眠っていました。

 翌朝、御来光を拝み、360度次々に現れる山々を見て感激しました。軽装だったので、ふるえあがりましたが、御嶽山から乗鞍、穂高と次々にしっかり脳裏に刻みました。最後にうっすらと富士も見え大満足でした。

 下山のバスの時間があったので、ホテルで土産品を見ていると、通りがかった従業員らしい人が「戸倉なら、さらしな神社がありますよ。娘とサイクリングで行ったことがありますよ」と言うのです。 感が的中していました。それで戸倉に行くことに決めたのです。  駅に着くと「さらしなの里へようこそ」と書かれているではありませんか。タクシーで真っ直ぐ佐良志奈神社へ向かいました。宮司さんが御親切に色々、教えてくださり、古今さらしな集を求めました。

 その日は週末の土曜日だったので千曲川と月の見えるホテルがとれませんでした。翌朝、ガイド付きのタクシーで3時間ほど遺跡を巡って上田から東京へ帰りました。  初めての方に長々とお便り致し失礼と存じますが、私が遥かに更級の里を思い描き続けていたことをお伝えすることができましたでしょうか。私も遠い地球の裏に置き去りにされるであろう姥かもしれません。

 現代では「かぐや」が月面探査をする時代になりましたが、私はやはり千曲川の見える宿で、もう一度祖先の見た月を味わいたいと願っています。昨年から自分史を書いていますので、今度訪日した時には、さらしな堂へお邪魔してよろしいでしょうか。末筆になりましたが、御家族の皆様にもよろしくお取次ぎ下さいませ。

                      2007年11月15日 野澤由紀子                                                                                                                                       

 のざわ・ゆきこさんの略歴   東京生まれ。ご主人が鹿児島大学を卒業した1961年ブラジルに移住。4人の子育てが終わったころ、日系人に何かとお世話になったので、日系2世~4世の子供に、寺子屋式の日本語教室を始めました。NHK放送劇団で勉強したこともあって、向いていると思ったそうです。85年、日本語教師研修で東宮御所へ参り、現天皇皇后両陛下に接見していただいたそうです。95年、日伯修好100周年記念にサンパウロ大学で行われた講演で、ドナルドキーン博士に「月日は百代の過客」と書いてもらった色紙は野澤さんの宝物。日本語教室からは13~15歳の少年少女本邦研修生として、その他留学生など多数日本へ送り出しました。99年の末に日本語教室を閉め、2002年からは第三の人生として主婦業に戻り、終のすみかの改築、ルーツへの旅を経て老後の趣味の世界を楽しんでいます。新潟生まれの曽祖母、祖母が「風のように何も残さず通り過ぎてしまった」ので、一枚の絵でも、一編の文章でもよいから趣味を活かせたらと思っていらっしゃいます。