更級への旅256号 秀吉が詠んださらしなの月の歌ー伊達政宗ら戦国武将が鑑賞した可能性 軸装されて京都・高台寺に

 

軸装された豊臣秀吉のさらしなの月の和歌を前に、高台寺の前執事長で現在は常任教師の後藤典生さん

 天下人の豊臣秀吉が詠んださらしなの月の和歌「さらしなや雄島の月もよそならんただ伏見江の秋の夕ぐれ」。自分の城下に広がる月の景色はさらしなの里の月に勝るとも劣らず美しいと、さらしなの月をライバル視した歌で、秀吉もさらしなの月に大きな憧れを持っていたことを示す歌でもあります。2007年にこの和歌の存在を知り、更級への旅49号で紹介しました。そのあとも調べを続け、いろいろなことが分かってきました。このたび秀吉自筆のこの和歌の書を所蔵している京都市の高台寺に取材をお願いしたところ、実物を見せていただくことができました。掛け軸に表具されており、これを名だたる戦国武将に秀吉が見せ、自慢していた可能性があります。(文末の画像をクリックすると、今号の記事と関連写真をA3サイズ1枚にレイアウトしたPDFが現れ、印刷できます)
 その可能性を考えるようになった最初のきっかけは、戦国時代の武将の和歌を編纂した本「戦国時代和歌集」(川田順著)の中の記述でした。秀吉が詠んだ歌もいくつも紹介されているのですが、その一つに「さらしなや雄島の月も…」の歌があり、歌にまつわる情報として、豊臣政権の拠点だった伏見城の学問所の茶室に飾ってあったという記述が添えられていたのです。山鹿素行(儒学者)が1673年にまとめた歴史書の武家事紀という書物の中に書かれているということで、そのくだりを記します。
 秀吉伏見城中に学問所を設け、その四方を数寄屋とし四壁に自ら和歌四首を墨書せり。右三首の中、一は辰巳之御座敷、二は未申之間、三は丑寅之間なり
 「右三首の中、一は」とあるのが「さらしなや雄島の月も…」の和歌です。「数寄屋」というのは畳敷きの茶室のことで、辰巳(東南)の方角に位置する茶室にあったことになります。実際に和歌がどのように鑑賞されていた知りたくなりました。
 高台寺は秀吉の正室ねねが秀吉の菩提を弔うために建立したお寺で、秀吉の死後、伏見城の建造物を移築したお寺でもあります。現在も残る茶室がその一部で「この茶室が学問所だったという説もある」という記述を高台寺を紹介するネットサイトの一つで見つけました。和歌にまつわる情報を教えていただきたいと高台寺に取材をお願いしました。
 快くお引き受けいただきうかがったところ、職員の田川真千子さんから武家事紀の記述を肉付けする史料をいただきました。秀吉の伝記、太閤記にも「学問所の記」というタイトルの記述があり、そこでは学問所の周囲四隅に茶室がそれぞれ造られ、和歌が飾ってあると紹介されていました。さらに高台寺の前執事長で現在は常任教師の後藤典生さんによると、所蔵する秀吉自筆の和歌は軸装されているとのことでした。
 後藤さんのお許しがあり、実物を見ることができました。「太閤秀吉公御自詠」と墨書きされた桐の箱に収められていました。机の上に広げていただき、特別に写真を撮ることもできました。秀吉のさらしな月の歌の存在は、2007年の段階では「高台寺の名宝」という図録で確認したのですが、図録では掛け軸の中央、秀吉の書の部分だけが掲載されていました。田川さんによると、書の周りは銀襴(ぎんらん)と呼ばれる、銀の糸で装飾した生地。光を受けると輝く仕立てだそうです。もしこれが茶室に掛けられていたとしたら、内部は少し暗いので、わずかな光りでも届けば繊細な光りを放つことがあったのではと想像しました。
 伏見城から移築し、もともとは学問所の周囲にあった可能性もある茶室の中にも入ることができました。傘亭と時雨亭(いずれも重要文化財)です。傘亭は屋根の部分が傘のように竹組で構成されているための名前で、時雨亭は二階建てという珍しいつくりです。許可をいただき、写真を撮ることができました。いずれにも床の間に相当する所があります。太閤記に記載がある、茶室に飾られていた和歌についての情報は、高台寺には伝わっていないそうですが、私は見せていただいた秀吉のさらしなの月の和歌の掛け軸がこの二つの茶室のいずれかに飾られている様子、そして名だたる戦国武将が鑑賞していた姿を想像しました。
 そう想像したのは、戦国武将も伏見城の学問所の茶室で時間を過ごしたことを示す文献もあるからです。伊達政宗が語った話を家臣が記録した「政宗公御名語集」(小倉博編纂)です。この中に「太閤学問所の数寄屋」というタイトルの話があり、そこで伊達政宗は、学問所の四隅に設けられた茶室で自分をはじめ、秀吉、徳川家康、前田利家の4人が過ごしたとふり返っています。秀吉のさらしなの月の歌には、伊達政宗の故郷、松島の別の呼び名である雄島の月も登場しているので、この歌を秀吉は政宗に見せ、自慢したかもしれません。
 以上、残された文献の記述などから分かったこと、想像したことです。もう一つ解いてみたいなぞがありました。秀吉がさらしなの月に勝るとも劣らず美しいと詠んだ伏見江の月はどんな月なのか。伏見城のあった場所にも行ってみました。次号で紹介します。