天下人の豊臣秀吉が詠んだ歌「さらしなや雄島の月もよそならんただ伏見江の秋の夕ぐれ」。前号ではこの歌を、伊達政宗ら名だたる戦国武将が伏見城(現在の京都市伏見区)で鑑賞した可能性を指摘しました。今号は、さらしなの月に勝るとも劣らないと秀吉が自慢した「伏見江の月」についてです。(写真は画像をクリックしてごらんください)
古来、特に有名な月の名所は、月の光を受け止め、照らし返す水がある池や海、川とのセットになっている所が多く、さらしなと一緒に秀吉の和歌に登場する宮城県松島の別の呼び名雄島も海に浮かんでいます(詳しくは本シリーズ135号)。さらしなの里にも川幅が広い千曲川(新潟県に入って「信濃川」、日本一長い川)が流れ、月はその上空を渡って沈んでいきます。天体の月と水に反射する月の光の美しさ、荘厳さを水辺が演出するのです。
「伏見江の月」は秀吉が築いた伏見城から見えた月のことですが、伏見城の下には巨椋池(おぐら)と呼ばれた巨大な池(約700㌶、長野県の諏訪湖の3分の2)がかつてあり、その上空にある月と月が照らす水辺の大空間が伏見江の月です。
秀吉が築いた伏見城は江戸時代に取り壊され(建造物の一部は移築)、巨椋池も昭和初期に水が抜かれて干拓されていますが、現地を訪ねることで、伏見江の月の実際をイメージすることができました。伏見江の月の大空間をイメージするために、グーグルアースを操作して写真を切り出しました。
左上の画像の中央が伏見城があった木幡山(こはたやま)と呼ばれる小高い山です。その手前、南側に大きな黄土色の部分がありますが、田んぼになっており、ここがかつて巨椋池だったところです。その周囲には琵琶湖を水源とする宇治川や、山科川といった京都を代表する川が流れ、これらの川の水が流れ込むところに巨椋池があったのです。
東からのぼった月が上空でこの湖のようなサイズの水面を照らす様子を、伏見城があった小高い山を歩きながら想像しました。ただ木が茂り、合間からしか巨椋池があった方は見通せません。左上の画像の方位を反対にした左下の画像をご覧ください。まだ堤防がない昔、大雨が降ったときは川が流路を広げ、巨椋池の水面も広がったでしょう。
田んぼになっている所にも立ち、伏見城のあった丘を眺めました。中央の写真です。建物の向こう側が木幡山。〇の中にお城のようなものがありますが、かつてあった伏見桃山城キャッスルランドという遊園地に造られた鉄筋コンクリートの模擬天守です。このときは沈もうとする西日を浴びて輝いていました。高校の修学旅行でこの遊園地に寄った記憶があります。実際の天守はもっと右側にあったということです。ここは現在、明治天皇のお墓になっています。前号で紹介した伏見城の学問所と周囲四隅の茶室は、この陵墓の敷地になっていると考えられます。
右上の写真は宮城県松島の月。(一社)松島観光協会の許可を得て掲載しました。下はさらしなの月。月の美しさを演出する舞台の鏡台山から上って千曲川の上空に上がった月です。わたしが撮影しました。秀吉が意図したか分かりませんが、歌は結果的に水辺の月の3名所を詠んでいます。秀吉の歌のことは、伏見を特集したNHKのブラタモリ(2016年放送)でも紹介され、伏見江の月のすごさがイラストで描かれていました。そのイラストは、番組の内容をまとめた本「ブラタモリ7 京都(嵐山・伏見) 志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)」に掲載されています。