さらしなの月に憧れた松尾芭蕉

 さらしな・姨捨、そしてそこに現れる月は、今から千年以上前の平安時代から京の都の人たちのあこがれの対象でした。日記文学の古典のひとつに「更級日記」があること、豊臣秀吉が「さらしな」を歌にも詠み込んだこと…。「さらしな」と言えば、姨捨、そして月がセットで連想されており、これら三つの言葉は切っても切れない関係にありました。松尾芭蕉がさらしな・姨捨に旅をしたのも、そうした先人の美意識の延長上にあります。
 古の作家を触発した一首
  さらしな・姨捨と呼ばれる現在の千曲市更級地区と同市八幡地区は、姨捨山の異名を持つ冠着山のふもとに広がっています。この一帯には、芭蕉が来訪して有名になった長楽寺と、「田毎の月」の言葉で知られ、棚田としては全国で最初に名勝となった姨捨棚田があります。眼下には日本一長い千曲川が流れ、千曲川を挟んで対岸に連なる山並みの一つ、鏡台山から昇る月が美しく見える観月の名所です。
 今から千百年余り前に天皇の命令で編纂された「古今和歌集」に載っている次の和歌が当地を世に知らしめました。
 わが心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て
 わたしの心はどうにも慰めようがない、姨捨山にかかる月を見ていてはという意味です。作者は「よみ人知らず」と記され、だれの歌なのか分かりませんが、この歌はあとに続く作家たちの創作意欲を大いに掻き立てました。まずは、古今和歌集の編纂から約50年後の951年に成立した大和物語という説話集の中の一つ「姨捨説話」です。
 主人公は信濃の国の更級に住む一人の男。両親と死に別れてからは年取ったおばと一緒に実の親子のように暮らしていましたが、男の嫁はこのおばを嫌っていました。嫁はこのおばを山に捨ててきてくれと夫を責めたため、男は満月の夜、「山のお寺でありがたい法事がある」とおばをだまして山の奥へ連れ出し、おばを置いて帰ってきてしまいました。 しかし、男は落ち着きません。山あいから現れた月を見て寝ることができず、そのときに歌ったのが「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」。男は非を悔いておばを迎えにいき、以来この山を姨捨山と呼ぶようになった―というお話です。
 一度は山に捨てたものの、連れ帰った老人の知恵で国が救われたという後日談が現在広く知られている説話には入っていますが、これは大和物語に始まる姨捨説話がベースの一つになっていると思われます。
 「更級」はなくてもタイトルに
御物さらしな日記samuneiru 「わが心…」の歌に大きく触発されたのが、日記文学の古典として知られる「更級日記」の作者、菅原孝標女です。大和物語の成立から約百年後の平安時代中期にこの日記を著しました。 内容は自分の少女時代から晩年までを振り返ったものです。
  物語が大好きで、乙女の時代は都でベストセラーになっていた宮廷貴族の恋愛小説「源氏物語」を耽読し、年をとってからは自分の境遇を嘆く、という構成です。彼女は源氏物語の舞台にもなった天皇家の子女に仕える女房という仕事に就きましたが、女ばかりで気苦労の多い環境の中では、理想と現実を重ね合わせることが難しく、もっと現実的に生きればよかったと振り返るくだりが印象的です。
 タイトルには「更級」とありますが、更級地区のことはなにも書かれていません。著者の孝標女も、更級の地に来たことはありません。役人である夫が晩年、信濃国に赴任したということが記されているだけです。 しかし、孝標女は明らかに、さらしな・姨捨一帯のことをイメージしながらこのタイトルをつけました。最終盤に登場する彼女の和歌「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」からそれがうかがえます。
 月も出ていない闇夜になんのために訪ねておいでになったのか、とわが晩年の身を嘆いてるのです。自分の境遇をさらしなの姨捨山に重ね、このタイトルに決めたのです。 「更級」の一文字も出てこない日記なのに、あえて使う。「文章の中でまったく触れずとも読者には分かってもらえる言葉」という思いが前提にあるということで、時間と空間を超える言葉として、理想郷のような存在として「更級」が口の端に載っていたということです。とてもロマンチックな言葉だったのです。今と違って旅は命がけでする時代でしたから、余計行ったことはなくてもみんなの話題になる地はあこがれの対象だったと思います。
 「さらしな」にライバル心を抱いた秀吉
 さらしなと月が密接に結びついていたことを証明する古人の和歌はいくつもあるのですが、ここでは、太閤の豊臣秀吉が詠んだ「さらしな」の歌を紹介します。
 さらしなやをしまの月もよそならんただふしみ江の秋の夕暮れ
  「をしま」というのは宮城県の松島湾に浮かぶ一つの島「雄島」のことだ思われます。雄島は古来、月を含めた景勝地として都にも知られていました。
 「伏見江」とは、秀吉が現在の京都市伏見区に築いた伏見城の城下に広がっていた水の豊かさを指す言葉です。 城のある丘陵の下には、巨椋池と呼ばれる京都で最大の淡水湖がありました。面積は約800㌶。そこに宇治川も流れ込む遊水地でした。さらにこの下流に行くと、大阪の淀川となります。しかし、戦前、食糧増産のための干拓事業で農地になってしまい、今はもうありません。
 長野県最大の湖である諏訪湖が約1300㌶ですから、諏訪湖の約3分の2の大きさです。このように大きな湖の水面に大きな川も流れ込む。当地の月が照らす千曲川の水が白く輝くように、巨椋池や宇治川の水面が月光を美しく反射させていたのかもしれません。 とすると秀吉のこの歌は、名月で知られる更級や雄島も伏見の月にはかなわない、という気持ちを反映したものです。さらしなへのライバル心があったということは裏返せば、それだけさらしなが天下人にとってもあこがれの地だったということです。
 古代から近世までの知識人を月に夢中にさせた根底には、月を心の鏡とみなす日本人の仏教的な精神性があります。その表現の場として更級が選ばれたわけです。子が親を捨てなければ生きていけないという理不尽さと真実性がより演出される道具として月と更級が効果的だったと思われます。月を美しく見せ、説話に迫真性を与える舞台として更級は一番の適地だったと考えられます。
  月を「さらしな」で消化して奥の細道へ
  そうした古代から中世までの歌詠み人にとってのあこがれの地を、一気に全国的にしたのが、江戸時代中期、松尾芭蕉の来訪と、それを文章に残した「更科紀行」です。 芭蕉の紀行文は、万葉集をはじめ古代から歌に詠まれてきた地名の中で、読み手がその名を耳にしたり唱えたり見たりしただけで、その美しさや悲しさ、哀れさのイメージを抱かせるようなった言葉「歌枕」の地を訪ねていくものです。
 代表作の「奥の細道」がよく知られますが、「更科」も姨捨山と月のイメージをセットで想起させる一つの歌枕になっていました。 芭蕉があえて「さらしな」への旅を独立させたのは、この歌枕についての旅を実践し、文章にまとめないでは、自分の紀行文学の完成にはたどり着けないという思いがあったのではと思います。 「奥の細道」はそれまでの日本を代表する歌人や悲劇のヒーローにちなんだ歌枕の地への紀行文です。
 江戸を起点に東北から上越、北陸と、ぐるっと回っています。花、鳥、風、月…日本人が古来育んできた自然に対する感性を、芭蕉が自ら歩いて旅をすることによって追体験し、それによって美意識を新たに創造しようという意欲的な試みでした。 更級への芭蕉の旅は、1688年(貞享5年)で、芭蕉文学の集大成となる「奥の細道」への旅の前の年です。芭蕉には更級の旅の前に、月見をしようと現在の茨城県鹿島地方を訪ねたときの紀行(「鹿島紀行」)もあるのですが、その中で「雨で中秋の名月が見られず残念」という趣旨のことを記しています。
 その後かつ更級への旅の前に行った関西地方の旅(「笈の小文」)でも、源義経が平家を破った一ノ谷古戦場で知られる「須磨」(神戸市須磨区)で、月を詠みながらも「夏に訪ねたせいか何かものたりない」と書いています。 この二つから芭蕉の月詠みに対する消化不良感が伝わってきます。このことも更級の名月を見る大きな動機になったと考えられます。
 芭蕉が私淑していた能因法師と西行にもさらしなを詠んだ歌がありますので、それにも触発された可能性があります。 芭蕉は「奥の細道」を、実際の旅から約4年後の元禄7年(1694)ぐらいまでに仕上げ、その年に51歳で亡くなりました。俳人・作家として最高潮の時期に更級に来て、月をからだで感じる時間を持ったわけです。観月のメッカである更級・姨捨山を自分の足で訪れ、日本人に最も親しまれてきた一つの歌枕を自分の中で消化しようとした気がします。更級に旅しなければ、奥の細道を自信を持って世に送り出すことはできなかった可能性があります。
 姨捨山に亡き母を見た?
  芭蕉はまた、さらしな・姨捨に来て母親のことを思い出していたのではないかとと思います。紀行文に残した「俤や姨ひとりなく月の友」の句から感じます。 芭蕉の母が亡くなったのは更科への旅の五年前でまだなまなましい感情があったと思います。
 芭蕉が俳諧で身を立てようとした若いころの俳号は桃青なのですが、この桃は母親が伊予宇和島の桃地氏の血を引くことから付けたということです。それだけ母親への思いが強かった証拠です。放浪の人間で母親に迷惑、心配をかけたという気持ちがあったと思います。芭蕉が更科に旅をしたのは四十五歳のときですから、母親と言っても母親は老人の年齢です。
 芭蕉は冒頭で触れました「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」の歌を口ずさんでいたかもしれません。 冠着山をみて謡曲「姨捨」を想像したのではないでしょうか。謡曲は能楽の脚本、シナリオであり、その一つである「姨捨」は今から600年前の室町時代、能の役者かつ作者で能楽の大成者である世阿弥の作とされます。
 物語は、中秋の名月がまもなくのとき、都の人が更級の月を見るために思い立って姨捨山に急いでやってきて山の頂上で更級の里に住むと言う女性に出会います。里の女性も、この日の中秋の名月を味わうため里から登ってきたと言います。この里の女性に都人が「老婆が捨てられた場所はどこか」と尋ねます。するとが「わが心」の和歌を持ち出しながら教えます。
 この後、里の女性が実は捨てられた老婆で、中秋の名月のときには毎年、「執念の闇」を晴らそうと姨捨山の頂上に現れていることを明らかにしていきます。そして、月の光のもとで舞を舞います。謡も奏でられ、月が隠れると老女も…。 この物語を読み始めて似ていると思ったのは、芭蕉の「更科紀行」です。同紀行の書き出しも「秋風にしきりに誘われてさらしなの里の姨捨の月を見ようと旅立った」となっており、世阿弥と芭蕉にとっては当地での「中秋の名月観賞」が特別な意味を持っていたことがうかがえるのです。 世阿弥も松尾芭蕉と同じ三重県伊賀上野の生まれです。
 芭蕉の生誕は1644年(正保元年)。世阿弥は1363年ごろに生を受けていますから、芭蕉にとって世阿弥は自分より約300年前の故郷の偉人です。芭蕉もおそらく謡曲に親しみ、同郷出身の世阿弥のこと、「姨捨」という謡曲の内容も知っていたでしょう。松尾芭蕉は謡曲「姨捨」と母親を亡くした体験から、更級の里、月、姨捨山についてのイメージを大きく膨らませた可能性があります。 また芭蕉が残した句「おもかげや姨ひとりなく月の友」には、そうした複合的な感情がこもっていると考えられます。「なく」には「泣く」と「亡く」の両方の意味が込められているのではないかと思います。
  聖と俗の適度な交流
 さらしな・姨捨が芭蕉の来訪後、全国の人にとってあこがれの地になった理由について説得力のあるのが、姨捨山と文学の関係研究についての第一人者、矢羽勝幸さんが著書「姨捨・いしぶみ考」の中で披露している分析です。
 長楽寺からの眺望はまことにすばらしい。このすばらしさの本質は、世俗との間隔・距離にあるようだ。垢にまみれた現実の人間生活を適当に客観化できる位置にあるのである。3000㍍級の高山ではこのような快感は得られない。聖と俗との適度な交流、宗教的な意味も含めて両者の境界が近世の姨捨山を誕生させたと考えられる。
 確かに長楽寺に立ってみると、眼下の千曲川の対岸に立つ山並みから顔を覗かせ、姿を徐々に現してくる月には、何か神秘的なものを感じます。町並みも田畑も手の届くようなところに広がっているので、矢羽さんの言う「聖と俗との適度な交流」というのは納得できます。「姨捨・いしぶみ考」は長楽寺と周辺に残る句歌碑を何度も訪ね足で稼いだ内容なので、この指摘には矢羽さんの実感が伴っています。
  天と地、つまり一番高い所(月の夜空)と一番低い所(水のたゆたう千曲川)の間に広がる大空間をひと息に体感できるところと言っていいと思います。「姨捨」という人の感情をを揺さぶらずにはいない古代からの物語を土台に、芭蕉の来訪を機に俳人たちが景観の美と人間の真実を盛んに句作するようになって、更級の姨捨は庶民の間に定着したと思われます。