さらしなの里とは

 「さらしな」という言葉を耳にしたとき、どんなことを思い浮かべるでしょうか。現代人の多くはそばでしょう。今でこそ、そばはその風味が大事にされていますが、かつては色の白さが珍重されました。「さらしなそば」です。なぜ、そばにこのような名前がつけられたのかをたどっていくと、「さらしなの里」は、日本人の伝統的な美意識が凝縮された所であることが分かってきます。
 大名屋敷に出入り
 麻布のさらしな堀井samuneiruさらしなそばという言葉が一つのイメージをもって定着したのは1800年代に入ってからのようです。定着にあたって大きな役割を果たしたのが、1790年(寛政2)ごろ、現在の東京・麻布永坂に創業  した「更科」という屋号のそば屋である可能性があります。 出身は信濃国保科村(現長野市若穂町、旧埴科郡)。最初は布の商いをしていましたが、経営者である主人のそば打ちの腕前がよかったため、そば屋を始めました。現在、麻布には「更科」を店名に入れたそば屋が三つありますが、その中の「総本家更科堀井」が直系だということで、いずれの店も今、白い「さらしなそば」を提供しています。
 「さらしな」が白色とつながるわけは、「さらす」などの言葉から連想されるように、すがすがしさ、清冽さを「さらしな」が思い起こさせるからです。 江戸時代、「更科」という屋号のそば屋の近くには大名屋敷や有力寺院があり、「更科」はそこに出入りしていたそうで、「更科」のそばは高級そばとして人気がありました。さらしなそばを「御前そば」とも呼ぶのはその名残りとみられます。御前とは貴人の面前をいう尊敬語です。1800年代に入ると、「更科」と言えば白いそば、という受け止め方が世間に広まっていった可能性があります。
 
神聖な「白」を味わう
 さらしなそばsamuneiru江戸時代の文献には「さらしなそば」のほかにも「信濃そば」「戸隠そば」「木曾そば」など信州の地名を冠したそばがたくさん出てきます。「さらしなそば」の命名には、そばの色でも特色を打ち出そうという意識が働いたのではないかと思われます。
 そもそも白いそばは、そばの実の一番真ん中の白い部分を使うことから可能になりました。石臼で挽くと柔らかいので最初に隙間から出て来ます。そのため一番粉と呼ばれ、さらしな粉という別名もあります。打ってそば切りにすると、甘みがあるのが特徴です。ただ、つなぎの役割を果たす成分が少ないため、手打ちでまとめるには熟練の技が必要でした。
 とすると、当時の人たちが好んだ訳も分かります。江戸時代も後半になると、生活が豊かになってただ満腹になるだけでなく、見た目、食感で食事を楽しもうという機運が生まれました。白色はもともと神聖・権威を象徴する特別な色でしたが、次第に庶民化し、暮らしのさまざまな場面で使うようになりました。食べるものにまで「白」ということで、大名をはじめ粋なお金持ちに迎えられたと思われます。
 
「さらしな」を狙った松尾芭蕉
 まんが更科紀行・表紙samuneiruそば粉をまるめた後に平たく伸ばし、糸のように包丁で裁断するいわゆる現在のようなそば(そばきり)が全国的に広がっていくのは17世紀後半からとされます。 麻布のそば店「更科」もその流れを踏まえて繁盛したのですが、そうしたそば切りの技術が開発される前、「さらしな」と言えば、まず月と姨捨を連想する人たちがたくさんいました。
 その代表が俳人、松尾芭蕉(1644~94)です。芭蕉がまとめた紀行文のひとつ「更科紀行」の中にその美意識が見て取れます。 芭蕉の残した数々の紀行文は「歌枕」の地をあちらこちら訪ねていくものですが、更科紀行だけは一つに絞って、つまり「さらしな」を狙っているのが特徴です。 歌枕とは、日本最古の歌集「万葉集」をはじめ古代から歌に詠まれてきた地名の中で、読み手がその名を耳にしたり唱えたり見たりしただけで、その美しさや悲しさ、哀れさのイメージを抱かせるようになった名所のことです。「さらしな」も姨捨山と月のイメージをセットで想起させる一つの歌枕になっていました。
 
さらしなを消化して「奥の細道」
 「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に吹さわぎて…」 更科紀行の冒頭の一文です。さらしなの里にある姨捨山の月がどうしても見たくなった、吹いている秋風がしきりにそうさせる、という意味です。更級に旅をする芭蕉の狙いの表明です。 さらしなへの芭蕉の旅は1688年(元禄元年)。俳句をたしなむ人にとっては聖典とも言える「奥の細道」への旅の前年です。そして芭蕉は「奥の細道」の旅の後に更科紀行を書き上げています。「奥の細道」を執筆する前にあえて更科紀行に取り組んだことからも、さらしなへの芭蕉の思い入れの深さがうかがえます。
 月は古来、自然風物の中でも和歌に詠み込まれることが最も多く、花の歌人として知られる西行の「山家集」でも題材は月が花より多いそうです。芭蕉は「奥の細道」を自分の文芸活動の集大成にしようと考えていたふしがあるので、日本人に最も親しまれてきたこの「月」を、「奥の細道」の旅に取りかかる前に自分の中で消化しておきたいと思っていたかもしれません。そしてその鍛錬の場として「さらしなの里のおばすて山」を選んだ可能性があります。
 「さらしなの里のおばすて山」とは、現在の長楽寺一帯(千曲市八幡地区、旧更級郡八幡村)です。更科紀行に載った「俤や姨ひとりなく月の友」の句碑が地元の有志によって建立され、更級では最も芭蕉にゆかりの深いところです。 芭蕉は、更級への旅から約六年後の元禄7年(1694)、51歳で亡くなりました。俳人・作家として最高潮の時期に更級に来て、月をからだで感じる時間を持ったわけです。芭蕉はさらしなに旅しなければ、「奥の細道」を自信を持って世に送り出すことはできなかったのではないでしょうか。
 
前の時代の美意識踏まえ
 人間の美意識は前の時代の人たちの美意識を踏まえています。歌枕の地をたどるのが「奥の細道」の旅の芭蕉の狙いだったように、芭蕉のからだの中には奈良、平安時代から受け継がれた美的価値観が息づいていました。月を愛でる美的価値観を集約する和歌が「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」です。
 この歌は今から1100年前、天皇の命令によって編纂された「古今和歌集」に載っています。意味は、わたしの心はどうにも慰めようがない、姨捨山にかかる月を見ていては、ということです。この歌はその後、多くの古典に引用されるなど、数多くの歌人、作家たちを触発してきました。作者について古今和歌集は「よみ人知らず」と記し、だれの歌なのか分かりません。いったいどんな人が詠んだのでしょうか。
 
旅人を触発した「さらしな」
 古今和歌集が編まれたのが905年(延喜5)ですから、それ以前に作られたのはまちがいありません。古今和歌集の前には、大伴家持が編纂したとされる「万葉集」がありますが、更級と姨捨山をセットにした歌は載っていません。 万葉集ができたのは奈良時代末の760年ごろ。万葉集の中にも月を詠んだ歌はありますので、当時はまだ姨捨や更級は都にはあまり知られておらず、古今和歌集が編まれるまでの約百年の間に有名になったと考えられます。
 その契機は奈良、京都にあった当時の中央政権である朝廷の「東国経営」だと思われます。 東国とは今の東日本一帯のことです。万葉集では防人の歌が一つの主要なジャンルになっていることが示すように、東国は当時、中国大陸と朝鮮半島の国々から日本を九州で防備する兵の送出元でした。そうした国防政策を経て九州を含む西日本一帯の守りが固まると、朝廷は次に東国の村々をしっかり治める施策に取りかかります。 その一つが坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じたことです。
 征夷大将軍とは、特に東北地方以北にあたる蝦夷を支配下に治める仕事を担う重要な役職です。当然、都の人の間では東日本地域への関心が高まり、情報収集も盛んに行われていたはずです。東国と都を往来する道は東山道という信濃国を通るものがメーンルートでしたから、信濃の風物や風俗に関する情報も都に運ばれたでしょう。
 こうした時代を経て編まれたのが、古今和歌集です。 また古今和歌集の編纂後しばらくして、延喜式神名帳という全国の神社名を記した公文書も編まれます。調査のため当時は多くの官僚や知識人たちが各地を歩き、月も眺めていたでしょう。その中で更級の月が特に心に残った人たちがいたとしても不思議ではありません。
 これらのことを総合すると、「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」の歌は「旅人」が詠んだ可能性が大きいと思います。口伝えなどによってこの歌が都で評判になり、古今和歌集の選者である紀貫之らの耳に届き、だれが詠んだか分からないが、とても良い歌であるとして歌集に盛り込んだ可能性があります。
 
掻き立てた創作意欲
 この歌は後世の作家たちの創作意欲をおおいに刺激しました。 文字に残された最初の作品が「大和物語」です。古今和歌集の編纂から約50年後の951年に出来上がったもので、この物語集の中の一つに「姨捨説話」があります。
  説話は、信濃の国の更級に住む一人の男が主人公。両親と死に別れてからは年取ったおばと一緒に実の親子のように暮らしていたが、男の嫁はこのおばを嫌っており…と始まります。嫁はこのおばを山に捨ててきてくれと夫を責めたため、男は満月の夜、「山のお寺でありがたい法事がある」とおばをだまして山の奥へ連れ出し、おばを置いて帰ってきてしまいました。 しかし、男は落ち着きません。山あいから現れた月を見て寝ることができず、そのときに歌ったのが「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」。男は非を悔いておばを迎えにいき、以来この山を姨捨山と呼ぶようになった―と説話は締めくくっています。
 能のシナリオである謡曲「姨捨」でも「わが心慰めかねつ」の歌は主材になり、読者の情感を掻き立てるのに大きな役割を担っています。
 
更級郡消滅は歴史的事件
 以上、奈良・平安の古代から江戸時代までの日本人が「さらしな」に寄せた思いをたどってきました。こうした日本人の伝統的な美意識を誇りに思い、自らもその美意識を持っていたのが旧更級郡の人たちでした。
 旧更級郡は明治時代、郡制が敷かれたあとの町村合併で1町28村で構成されていました。千曲川と犀川の合流地点から南側に広がる平地と郡最高峰の聖山と冠着山(姨捨山)などの中山間地域からなり、甲斐(山梨県)の武田信玄と上越(新潟県)の上杉謙信が幾度もの合戦を繰り広げた川中島地域のあるところです。県内の四つの平野の一つ、善光平の多くを占め、米やりんご、あんず、ぶどう、ももなど多彩な果樹をたくさん産してきた肥沃の地です。
 しかし、川中島の村々は次々に長野市と合併し、最後まで残っていた山間地の大岡村も2005年、長野市となり、更級郡の名前は消滅しました。郡が設けられた今から約1400年前の飛鳥時代、信濃国は10郡で成り立っていました。明治時代になり長野県がうち6つを上下と南北に分け、計16郡としたのですが、まるごと一つの郡がなくなったのは「更級郡」が初めてです。これは歴史的な事件です。
 
更級村初代村長の尽力
 そんな中で、「さらしな」という地名をずっと受け継いできたのが現在の千曲市更級地区です。更級地区は明治の町村合併で「更級村」と名乗るようになったことから、こうした地区名があります。それを主導したのが初代村長の塚田小右衛門(雅丈)さんです 政府の町村合併の方針が公布された明治21年(1888)、羽尾、須坂、若宮の3カ村は、政府の中央集権化政策にしたがって連合村を形成していました。羽尾村の塚田小右衛門さんが連合村の最高責任者でした。 
 小右衛門さんは前々から、さらしなを象徴する山である姨捨山は冠着山の異名であること、さらにこの3カ村が、全国各地の地域名を記した平安時代の和名抄に載る「更級の郷」に含まれると確信を持っていました。それで、新村名を「更級村」にしたいと各村に提案し、決まったのです。 冠着山が姨捨山の異名を持つのは、当地を東山道の支道が通っていたためです。
 東山道とは、「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」の和歌が誕生した背景説明のところで少し触れましたが、朝廷が「大化の改新」(645年)の後、長野県を含む現在の東日本地域を支配するために設けた現在で言う国道です。この支道にあたる道が、東山道の本道の通る松本から北に分岐して北陸、新潟に向かっており、そのルートが冠着山の肩部を越え、更級地区を通過していたとされます。この道を往来していた当時の役人や知識人が冠着山に姨捨山の異名を与えたと思われます。
 残念ながら、1955年(昭和30)、戸倉町と五加村との合併で、「更級村」という名前は消滅しましたが、行政上は「更級地区」となり、小学校の名前は「更級小学校」のまま残っています。
 さらしなプロジェクト
 拡大・さらしなマップ-チラシ用2014年、古代から全国の人のあこがれだった「更級郡」という地名がなくなったことを、残念に思う人たちが集まって運動を始めました。長野県千曲市を中心に、冠着山のすそ野に広がる全域を「さらしなの里」と呼び、地域の経済も元気にしていこうという「さらしなプロジェクト」です。
 文化、教育、福祉、産業など、この地域ではすでに、暮らしにまつわるさまざまな活動が展開されています。この地域が「さらしなの里」であるということをもっと強調することで、活動をさらに魅力的にできるのではないか…。そんな思いで集まった人たちの組織が「さらしなルネサンス」です。さらしなルネサンスでは、さらしなという地名と、さらしなの里の景観、培われてきた伝統文化の魅力をもっと発信していきます。

 【主な参考文献】 「蕎麦屋の系図」岩崎信也(光文社新書)、「古今さらしな集」「地名遺産 さらしな」大谷善邦(さらしな堂)、「更級村命名の由来」塚田哲男  、「月と日本建築」宮元健次(光文社新書)