5号・さらしなを体感して奥の細道へ

  俳人・松尾芭蕉の紀行の中で、「更科紀行」はちょっと独特な位置を占めています。芭蕉の残した数々の紀行文は歌枕の地をあちらこちら訪ねていくものですが、更科紀行だけは一つに絞って、つまり「さらしな」を狙っている感じなのです。
 実は来なかった?
 歌枕とは万葉集をはじめ古代から歌に詠まれてきた地名の中で、読み手がその名を耳にしたり唱えたり見たりしただけで、その美しさや悲しさ、哀れさのイメージを抱かせるようなったもののことです。「さらしな」も姨捨山と月のイメージをセットで想起させる一つの歌枕になっていました。
 「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の心に吹さわぎて…」
  更科紀行の冒頭の一文です。更級の里にある姨捨山の月がとてもみたくなった、吹いている秋風がそうさせる、という意味です。更級に旅をする芭蕉の意図表明と言っていいでしょう。
 更科紀行は短編です。芭蕉の紀行の中では分量も最少ではないでしょうか。400字詰め原稿用紙で二枚強ほどです。そのせいか、内容も簡潔で、省略も多い。旧暦の8月15日、今では9月の半ばにあたる中秋の名月を目指して美濃(岐阜県)からわずか4日間で到着するという強行軍であるせいもあって、「実は芭蕉は更科まで来なかった」という説まででてくるほどです。
 芭蕉があえて「さらしな」への旅を独立させたのは、この歌枕についての旅を実践し、文章にまとめないでは、自分の紀行文学の完成にはたどり着けないという思いがあったのではと私は考えています。
 更級への芭蕉の旅は、1688年(元禄元年)で、芭蕉文学の集大成となる「奥の細道」への旅の前の年です。そして細道の旅の後に更科紀行を書き上げています。言い方を変えると、芭蕉は奥の細道の旅が終わってもすぐには細道の執筆に取りかからず、あえて更科紀行に取り組んでいるのです。
  奥の細道は、平安時代の末、諸国に旅をし自然歌人として後世に大きな影響を与えた西行やことしのNHK大河ドラマになっている源義経など、それまでの日本を代表する歌人や悲劇のヒーローにちなんだ歌枕の地への紀行文です。江戸を起点に東北から上越、北陸と、ぐるっと回っています。花、鳥、風、月…日本人が古来育んできた自然に対する感性を、芭蕉が自ら歩いて旅をすることによって追体験し、それによって美意識を新たに創造しようという意欲的な試みでした。
 現代人とテレビ
  「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」という冒頭の一文は、旅は人生にとってかけがえのない要素と位置づける宣言であり、その精神は明治以降の俳句の基礎となり、現代の俳句ブームにもつながっていると言っていいものです。
 月の話に戻ります。古来、歌に詠まれてきた自然風物の中で最も多いのが月です。わが国最古の歌集である万葉集の月の歌は約180首で風、雪、太陽を抜いて最多。また鎌倉時代に編まれた新古今和歌集でも雪、雲、風に比べて傑出して多い。花の歌人としても知られる西行の山家集でも題材は月のほうが花より多いということです(出典は宮元建次著「月と日本建築」)。
 昔の人はなぜそんなに月が好きだったのか。現代人には理解しがたいことです。でも、夜になるとテレビをつけずにはいられない現代人と、一つの明かりを見つめるという点では同じです。違うのはそこに自分を映しているのかいないのかということのような気がします。
 芭蕉は、観月のメッカである更級・姨捨山を自分の足で訪れ、日本人に最も親しまれてきた一つの歌枕を自分の中で消化しようとしたのかもしれません。
 実は芭蕉には更級の旅の前に、月見をしようと現在の茨城県鹿島地方を訪ねたときの紀行(「鹿島紀行」)もあるのですが、その中で「雨で中秋の名月が見られず残念」という趣旨のことを記しています。その後かつ更級への旅の前に行った関西地方の旅(「笈の小文」)でも、源義経が平家を破った一ノ谷古戦場で知られる「須磨」(神戸市須磨区)で、月を詠みながらも「夏に訪ねたせいか何かものたりない」と書いています。この二つから芭蕉の月詠みに対する消化不良感が伝わってきます。
 エッセンス
 神奈川県平塚市の隆盛寺でこのほど、芭蕉が更級への旅のあと間もなく書いた「更科姨捨月之弁」が見つかり、信州おばすて観月祭のあった昨年9月25日、長楽寺(旧更級郡八幡村、現千曲市)で一般公開されました。長楽寺一帯は芭蕉が訪ねた後、姨捨山として全国に知られるようになった寺です。更科紀行に載った「俤(おもかげ)()(や姨一人なく月の友」の句碑が地元の有志によって建立され、更級では最も芭蕉にゆかりの深いところです。
 「更科姨捨月之弁」は「今年こそは姨捨の月をみようという思いがしきりだったので」という意味の言葉で始まり、更科紀行の冒頭よりさらに明確に狙いを記しています。そして「俤や…」の句を作った事情についても「「なにゆえに老いたる人を捨つらんと思うに、いとどなみだを落ちそひければ…」と書きとめています。更級への旅の紀行をまとめる前に、自分の心の軌跡を記録しておこうとした印象を受けます。いわばエッセンスです。
 芭蕉は「奥の細道」を実際の旅から約四年後の元禄7年(1694)ぐらいまでに書き上げ、その年に51歳で亡くなりました。俳人・作家として最高潮の時期に更級に来て、月を体で感じる時間を持ったわけです。芭蕉は更級に旅しなければ、奥の細道を自信を持って世に送り出すことはできなかったのではないでしょうか。

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