121号・「卯の花」を病身の自分と重ねた正岡子規

  シリーズ86119で、正岡子規が学生時代の明治24年(1901)、善光寺から木曽へと善光寺街道をたどった紀行文「かけはしの記」に触れてきました。この中には道中での感慨をもとに子規が作った俳句や短歌がいくつも添えられているのですが、一つ趣向の違う短歌があります。
   むらきえしやまの白雪きてみれば駒のあかきにゆらぐ卯の花
 姿形が沁み入る
 子規の旅は6月下旬。この歌は乱橋宿(旧坂北村、現筑北村)で一泊して翌日、馬に乗って立峠に上る途中の風情を詠んだものですが、夏本番を前に道端にたくさん咲く白い花が「卯の花」であることを馬子に教えてもらい、「いとうれしくて」(本文の表記のまま)、つまり「とてもうれしくなったので」と歌を作った動機を説明しているのです(卯の花は下の写真、ウィキペディアから借用)。
 ほかの句歌には、作った事情を説明した目立つ言葉が添えられていないので、不思議に思っていました。そんな中で、俳人、坪内稔典さんの著書「正岡子規の<楽しむ力>」(NHK出版)を読んでいたら、子規が肺結核を患って喀血したのは22歳(明治22年)のときの卯月(陰暦四月、現在の暦だと5月ごろ)で、「卯の花」は子規にとって特別の意味を持つようになっていたことを知りました。最初の子規の喀血は善光寺街道を歩く2年前ですが、当時、肺結核は致死の病とみなされていたので、それは深刻な事態でした。
 喀血したときには卯の花をめがけてきたか時鳥」「卯の花の散るまで鳴くか子規という卯の花を強く意識した句も作っているそうです。ただ、「かけはしの記」の中で「教えてもらって卯の花だと分かった」という趣旨のことを明かしていることを考えれば、子規は喀血したときにはまだ卯の花がどんな花なのかよくは知らなかったことになります。いや全く知らなかったことはないにしても、立峠に上る旅の途上で初めて子規の心身に卯の花の姿形が沁み入ってきたことになります(立峠の卯の花が5月ではなく6月下旬に咲いていたのは、山間地なので開花が遅れていたのだと思います)。
 子規が卯の花に強い思い入れを抱いたのは、ホトトギスという鳥と関係があります。ホトトギスは「特許許可局」「テッペンカケタカ」などと記される鳴き声でよく知られていますが、その鳴き方が懸命でのどの赤い部分を見せるため、子規は結核のため血を吐いた自分をその姿を重ね、俳句を作るときの名前である号にホトトギスとも読む「子規」という漢字を使ったのでした。ホトトギスは古来、「春のウグイス」に次いで夏の到来を象徴する鳥だったので、同じ季節の代表的な花である卯の花と深く子規の中で結びあったのです(子規は卯年の生まれでもあったそうです)。
 両者の結びつきは古く、万葉集の歌にも詠み込まれています。卯の花は野山に自生する落葉灌木で庭や垣根にも植えられ、その形姿が稲の穂と似ていることから豊穣の予祝に使われ縁起もいいので、この花を自分の分身のように位置付けた可能性があります。卯月は「卯の花の月」から生まれた呼び名という説があります。
 必死の旅?
 そう気づいてからもう一度「かけはしの記」を読み直すと、子規は善光寺街道を相当な覚悟をもって歩いたことをうかがわせる記述がいくつも見つかってきました。  冒頭にすでに「仏の御力を杖にたのみてよろよろと病の足もと覚束なく草鞋の緒も結びあえでいそぎ都を立ちいでぬ」という一文があります。「病身の自分の足元は不安定だが、とにかく東京を出発した」と病の身であることを強調しています。  続けて
    五月雨に菅の笠ぬぐ別れ哉
 という句を添えています。  雨が触れば菅笠はかぶるのが普通だと思いますが、あえて「ぬぐ」と詠んだのは、これから始まる旅がどんな旅になるか分からない、自分の命も分からないので、ちゃんと知人に顔を見せておこう、という覚悟を詠んだのではないかとも思えてきました。さらにその後に「友人たちがはなむけの詩文を寄せてくれた」として
     卯の花を雪とみてこよ木曽の旅   (古白)
 という句を添えています。
 古白とは子規の従弟(本名・藤野潔)です。子規が旅する信州は卯の花が咲く季節なので「道中にきっと卯の花があるはず」という会話が子規と古白との間で交わされてたことをうかがわせます。
 また子規の弟子である河東碧梧桐が子規に寄せた文も載せ、そこには「願はくは足を強くし顔を焦して昔の我君にはあらざりけりと故郷人にいわれ給はん事を」とあります。善光寺街道をたどる子規のこのときの旅は故郷の愛媛県松山に帰る途上だったので、「しっかり歩いて病の身でないというほどに日に焼けてたくましくなった姿を故郷の人に見せてきてほしい」とはなむけの言葉を送っています。子規にとっては覚悟、必死の旅だったことがうかがえます。
 右下の写真は乱橋宿の現在の様子です。中央奥の少し凹んだ部分が立峠。数年前の五月の連休に撮影したものです。街道沿いにはまだ花を見かけなかったように思いますが、六月、田植えの季節のころになると今も峠に至る山道には、卯の花が咲き誇るのでしょうか。左上の写真は立峠を越えて旧四賀村、会田宿に下って行く途中の風景です。奥に見えるのが雪が残る北アルプスです。子規はこんなアルプスの姿も眺めて冒頭の歌を作ったのです。 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。