30号・多彩な呼び名持つ冠着山

更旅30

 冠着山は姨捨山のほかに「更級山」という異名を持っています。この異名が生まれた経緯について少し触れてみたいと思います。
 枕草子にも
 まず和歌です。
  さらしなの山の嵐も声すみて木曽の麻衣月にうつなり(順徳院・後拾遺集)
  何処とも月はわかじをいかなればさやけかるらんさらしなの山(隆源法師・千載集)
  更級の山のすそ行くみなの川さこそはすまめ秋の月影(経平・影供歌合)
 これらは11〜13世紀、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて編まれた和歌集の中に出てくるものです。「更級の山」は、更級郡という地域全体に広がる山並みを指しているとも言えますが、読み手や聞き手の多くは郡内の高山で威容を示す冠着山をイメージしたでしょう。そしていずれも「姨捨山」とするよりはその月影の清冽さが鮮明になるように思います。 
「春は曙(あけぼの)(、ようようしろくなりゆく…」で始まる「枕草子」には、趣のある山として更級山と姨捨山の二つが取り上げられています。清少納言が書いた同書は源氏物語とともに平安時代の女流文学の双璧とされますが、一番古い書写本には記されていません。その後、別の人が書き写していく過程でこの二つが追加されたようで、全国の名だたる山々と伍して登場しています。
 「更級が本の名」
冠着山の呼び名の歴史的な違いについて、国学院大学の前身である皇典講究所の教授だった佐藤寛さんが明治時代半ば、著書「姨捨山考」の中で次のように解説しています。
 更級山と呼ぶときは、大方の名のように聞こえ、冠山または冠着山などと呼ぶときは、その山特有の名のように聞こゆるからに、更級の里人はその山を更級とは呼ばで、冠または冠着など呼び倣わせるが、いつとなく世に広まりて、更級山と冠着山と別の山のやうになり、その冠着山に、姨を捨てたるより、時の人字して姨捨山と呼びたるを、もと冠着といふ特有の名あれば、里人はなお冠着々々と呼び倣わしつつ冠着山と姨捨山と更に別の山のやうにはなりにけん、されば更級が本の名にて冠着はその状によりての名、姨捨山はその事によりての名なり
 「姨捨山考」は、古来歌に詠まれてきた姨捨山が冠着山であることを論証した最初の出版物で、当時の佐良志奈神社宮司、豊城豊雄さんが書き留めていた「姨捨山所在考」を参考にしています。佐藤さんのこの部分の記述を要約しますと、冠着山には更級山と姨捨山の呼び名もあるが、更級山がもともとの名で、冠着山は地元の人間の言い方、姨捨山の説話は後になってつけられたもの、ということです。
 佐藤さんのこの本は、冠着山の呼び名の多様さを分析し、世に広める役割を果たしました。
 九谷焼大皿
  冠着山が更級山とも呼ばれていたことを一つの根拠に「更級村」を誕生させたのが、初代村長の塚田小右衛門さんです。羽尾、須坂、若宮三カ村の合併による新村名を更級村にするべく長野県に認可を求めるときに小右衛門さんがしたためた文書が残っています。羽尾地区在住の郷土史研究家、塚田哲男さんがお書きになった論文「更級村命名の由来」の中に現代語訳にしたものが紹介されていますので、それを記します。
 羽尾村地籍にある冠着山は、更級郡著名の高山で、姨捨山とも呼びます。いわゆる更級山もこの山のことです。歴史をさかのぼりますに、わが三カ村はこの山の麓に一地形をなし、古昔更級郷(更級郡九郷の一つ、和名抄にある)と言っております。これは更級山より発したること明らかです。山の嶺は若宮村万治嶺に連なり、その山麓に若宮八幡社があります。 これを佐良志奈神社と号します。延喜式内社です。更級山の東麓にあるために佐良志奈の社号を付したのです
  小右衛門さんは、冠着山が更級山であることにこだわった九谷焼の大皿もつくっています。上の写真です。箱書きには「姨捨山一名更級山鎮座冠着宮」と自筆で書かれています。その意味は「姨捨山とも更級山とも呼ばれる冠着山。その山の頂には冠着宮が鎮座している」ということです。大皿は復数枚つくり、1枚は国政に携わっていた当時の有力政治家の一人、近衛篤麿氏に贈呈したそうです。写真に写っているものは、羽尾地区の明徳寺に所蔵されており、同寺にお願いして塚原おきこさんと佐久子さんに見せていただきました。大皿を支えてくださっているのが塚田哲男さんです。
 カルホルニア
 最後に佐久間象山の漢詩です。江戸幕末に冠着山にのぼって、「更科山―」と題する漢詩をつくっています。
   更科山観月、明朝帰路逢雨二首 
    昨夜山楼弄月光 今朝猶染桂花香
    中途試望勝遊処 満壑秋雲雨渺茫 
    倦策帰来路未央 古村風雨暗横塘
    通宵飽看名月山 此景今朝却不妨
 1行目がタイトルで、「更科山で観月をした翌朝、雨の中でつくった漢詩」という意味です。本文は、昨夜、山頂で月の光を楽しんだ、今朝は山の木々の花が香り、遠くには秋の雲が雨にけぶっている…。象山が残したこの漢詩の書の一部が右の写真です。「象山先生遺墨選集」から複写しました。
 ほかにも象山は中国の浙江省にある名山「天姥山(てんぽさん)()(」のほか「姑棄山」「冠着山」と、呼び名を使い分けて漢詩や歌をつくっています。一つの山からさまざまなイメージを膨らませた証です。ちなみに呼び名を冠着山とした象山の和歌は
   わがくにの冠着山に見る月はカルホルニヤのあけぼのの空
 冠着山には美しい月がかかっている。しかし、地球の裏側のアメリカ・カリフォルニアは今、夜が明け、白み始めているに違いない―というような意味でしょうか。欧米諸国の地理にも通じていた象山ならではのスケールの大きい視野の広い歌です。そしてこの歌が先に紹介した九谷焼大皿に書き込まれています。冠着山に対する小右衛門さんの思いが凝縮された文化財です。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。