38号・更級郡民の親睦、言論誌

   今から100年余り前、19世紀から20世紀への変わり目の1900年、更級郡のオピニオン雑誌が創刊されました。「更級郷友会雑誌」です。
 女親的役割
 表紙には、たゆたう千曲川の流れを包みこむ大きな満月。そして、その中に誌名を置くデザインで、更級の景観を強く意識したとても味のあるものです。
 巻末には編集人が「五明砂」さんとあります。住所は「今里村」、現在の長野市今里地区です。発行人は「横沢庄三郎」さん。住まいは「栄村」、現在の長野市篠ノ井御幣川地区です。原稿を寄せているのは町村や群の議会議員や代議士のほか、町村の有力者や学校の先生たちと思われます。いわゆる民間の有志による言論誌です。
 そして発行所は「稲荷山町の更級郷友会事務所」と書かれています。当時、稲荷山町は商業が活況で有力政治家を輩出するなど、更級郡のリーダー的な地域でした。
 創刊の狙いが、「発刊の辞」に記されています。
 思うに更級郡自ら更級郡の世論あり。正々の議、堂々の論、もって一郡の前路を照破するに足るものありて、しこうしてこれを同人の間に伝え、これを公衆の前に告白するの機関を欠くや久し。郷友会雑誌は正しくこの機関たるを期待するものなり。
 更級郡には更級郡民それぞれの考え方や意見があり、その中には郡の進むべき道を示す貴重なものもあるのだから、それをこの雑誌で伝えたい―のが目的ということですが、なぜこの時期に創刊されたのでしょうか。雑誌発刊に1年先立って発足した「更級郷友会」の設立理由をみるとはっきりしてきます。創設発起人として郡内の38人が参加して作った「主意書」があります(旧更級村からは初代村長の塚田小右衛門さんが名前を連ねています)。内容を要約すると次のようになります―
 更級の地は風光明媚で川中島合戦が繰り広げられ、四通八達の交通の要所だが、英雄を出さず産業も振るわない。郡役所や警察署、教育会などは整備されたものの、ほかの市や郡に比べて劣っているのはなぜなのか。命を守ったり教養を授けたりするのが「父親」の仕事だとすると、それを慈愛で包みこんで育てる「女親」の役割が必要だ。その女親的な役割を郷友会が担っていく―この「女親的役割」というのは平たく言うと、温かく見守って更級郡を背負っていく人材を育てていこうということでしょう。
 長野県内では他郡で郷友会がすでに組織されていました。更級郡も負けてはならじと、郷友会の親睦、啓蒙機能を「更級郷友会雑誌」に担わせたということのように思います。
 東京に郡民子弟の学寮
 当時の更級郡民の一体、連帯意識を感じさせる記事をいくつか拾ってみます。
 特に目につくのが、東京に設けられた「右尚館」です。全寮制で、更級郡出身の若者を預かり、大学に通う学生などの世話をしたところです。創刊号のときは小石川区竹早町にありましたが、まもなく麹町に移転しました。第2号では、和田連次郎さんという方が本を寄贈しています。「スタンダード英和大辞典二冊」「世界地図一軸」「日本交通全図一軸」などで、広い視野をもってほしいという当時の大人たちの思いがうかがえます。
 ほぼ毎号に右尚館の近況が載っています。第10号では、郷里の更級語であるオメサン、ソデグハス、オクンナサイヤなどの言葉が依然として用いられ、東京の中央においてもなお、郷里にある感があると報告。「これは館生が東京化しない証拠である」と誇らしげに記しています。
 第四号には「更級郡の父兄諸君に告ぐ」という記事が。郡内の父母らに対し、自分の子どもを上京させたい場合の参考にとして郷友会東京部と右尚館のことを説明するコーナーでした。今、人材を育てる場として企業が寄宿舎での集団生活の見直しを始めていますが、お手本はこの時代から盛んになった学寮にあるのです。
 第3号の巻末では郡民から情報を広く寄せてほしいと呼びかけをしています。町村の学校管理者には学務状況を、有志家には政治の状況や起こりつつある公共事業、さらに住民の善行表彰、商業・工業・農業の現況などを求めています。これに応えるように以降の号では、報告がいくつも届いています。
 毎号、「雑報」のコーナーがあり、そこには郡内のさまざまなニュースが載っています。各町村の男女別人口の特徴、徴兵検査の成績、郡出身者の兵営雑話、「ねずみ盗」の頻発、長野市での寄宿舎の開拓…。「たきもの集」と題する特集では、その一つに「美人の立小便をやめさせたい」など、記事作りの自由奔放さと多様さ、ユーモアを感じさせます。A5判のサイズに80㌻位の分量で、発行は1年に3、4回のペースでした。
 一時中絶の悲しき運命
 しかし、創刊から5年、1905年(明治38)には終刊したようです。日露戦争が終わった年です。なぜなのかよく分かりませんが、稲荷山町の商業の地盤沈下、日露戦争を経て国家総動員で国の難局に当たる時代も影響していたと思われます。
 ただ、言論雑誌づくりの熱気は郡民に強い印象を残したようです。それは「郷友会雑誌」の廃刊から7年後の明治45年、更級郡役所が編集発行を始めた「更級時報」創刊号の次の「論説」の一部からもうかがえます。(郡役所についてはシリーズ第2号をご参照ください)
 更級郡には既に郡発展上の機関として更級郷友会雑誌があった。予は当時東都に遊学しおり、第一号から愛読した一人だ。ところがその後雑誌の表談は「二水評論」と変わり、三十八年の十二月号を以って一時中絶の悲しき運命に至ったのである。
  この方は「東都に遊学」、つまり東京で学問を学んだと記していることから、右尚館の寄宿生だったかもしれません。「更級郷友会雑誌」発行時の活気を知っているので、余計、群を包括する新たな言論誌「更級時報」に期待を寄せたものと思われます。
 ただ、「更級時報」には正直言って大きな言葉がならんでおり、「郷友会雑誌」のような生き生きとした内容があまりないような気がしました。欧米列強による植民地化の恐怖を抱いていた国の政策も背景にある言論誌なので、それも仕方がないかもしれません。
 今から百年前は、明治維新を機に盛り上がった民間活力が行政主導に変わり、戦時体制へと大きく舵を切っていく時代でもありました。

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