48号・子どもたちがしていた村界めぐり

 更級小学校で昔の教科書や参考書などがある部屋を見せてもらっていたとき、「我が郷土」という教科書を見つけました。発行は戦前の昭和14年、更級郡甲組職員会、つまり、学校の先生たちがつくったものです。その場で開いたところ、「学校から出て村界を一まわりせよ」という文字が目に飛び込んできました。これは今もさらしな地区(旧更級村)の区長さんたちがやっている「境めぐり」と通じるところがあるようで、興味がわきました。石井智校長先生の許可をいただいてお借りし、読んでみました。「我が郷土」は郷土学習の一つの到達点だったようです。
 大家族の時代
 「私の家」という章から始まります。次が書き出しの文章です。
 人は家に住む。家は人の生活の根城である。私の家というのは建物のことばかりではなくして、そこに住む人の生活もくるめていふのである。部落も村も町も県も国も、私たちの家が集まって出来ているので、土地がいくら広くてもこの家がなかれば成り立たない。だから、私たちは郷土誌のはじめに、まず私の家について学習しよう。
 当時は、お年寄り夫婦、若夫婦、孫、中にはおじさんやおばさんも同居する大家族が普通の時代です。代々続いてきた家に歴史や伝統が凝縮されていたので、教科書は家族の名前や年齢、自分との関係をまず、書きこませます。
 次に水についての学習です。朝起きて歯をみがき顔を洗うにも、ご飯を炊くにも水が必要です。当時は蛇口をひねれば水が出るというような上水道はまだあまり整備されていません。教科書には井戸、川、清水、水道など、取水源を記させる欄もあります。毎年の田植えにも大量の水が継続的に必要です。田の水は主食の米を育てるために特に大事なものでしたので、自分の家の田の水がどこから得ているかも調べさせています。
 視野が次第に広く
 さらに食べ物です。米、麦、豆、野菜などを家でつくっているのか買っているのか、買っているのならどこで買ったのかなどを一つ一つ書き込ませます。これは飢饉の記憶がまだ残る時代だったせいもあるのでしょうか。そして屋敷神、自分の住む集落の成り立ちについて学習…。
 自分の近辺のことを学んだ後は、他の地区との関係を学ぶことになります。学習を続けていくことで、自然と視野も広くなります。「村界を一まわりせよ」という指示は、そうした学習の後に、自分の村をもう一度、総合的に意識させる仕掛けにもなっています。羽尾第五区(旧更級村)区長の中澤厚さんによると、境めぐりは現在、2年がかりで行っています。毎年9月、冠着山頂を基点に1年目は東へ、2年目は西へ尾根伝いにたどるのだそうです。
 1年目は冠着山の頂上に昼過ぎに集合し、冠着神社に参拝してからスタート。旧坂井村と旧上山田町との境を地面に埋め込まれた境杭をさがしながら歩きます。児抱岩を上に仰ぎ見て東京電力の鉄塔に。まもなく武田信玄と上杉謙信の川中島合戦のときは戦況を伝えるのろし台にも使われたとされる正城山頂に到着。ここが芝原地区との境界で、ここから里に向かって下り、更級小学校の学有林、さらに、かしゃっぱ池を経て初回の境めぐりは終わりです。
 2年目は、一回目の方向とは反対に冠着山頂から西方面へ。昼過ぎに一本松峠に各区それぞれトラックにて分乗して集まります。西方面の境には車が通れる道があるためです。これで旧坂井村、大池など旧八幡村との境界をたどるのだそうです。
 仙石地区(旧更級村)在住で戦前生まれの金井信夫さんは戦後、新制更級中学の生徒だっとき、境を遠足で歩いていたそうです。当時も「村界めぐりと言っていたそうですから、戦前のこの郷土学習の伝統が戦後も残っていたと思われます。
 自分の家や地域についてしっかり学習した後に、高いところから、しかも自分の足で村全体を眺めれば、あらためて気づくことも多く、村への愛着も増したのではないでしょうか。
 帰属先は?
 こうした学習は、科目で言えば、「地理」が中心です。空間と時間の中に自分を位置づける、いわゆる科学的なものの見方や考え方を育てる科目です。
 しかし、戦前の郷土学習は家制度をもとにしていたことから戦後、制度自体が解体されます。家に対する考え方は大きく変わり、暮らしも便利になっていくのに伴って「我が郷土」のような学習も下火になったと思われます。国が教育を戦争に利用したという反省もありました。もともと地理を核にした郷土学習は、郷土を大事にできれば国も大事にするという考えから始まりました。この考えは間違っていないでしょう。
 「我が郷土」で学習すれば、自分がどこの何に帰属しているのかを明確に意識するでしょう。これを縛り、拘束ととらえるか、基盤、根っこととらえるか。いずれにせよ、地域をはなれて個人がないということは間違いないと思います。
 編集に携わった更級郡甲組職員会の「甲組」とは、更級村のほか、村上、力石、上山田の四カ村のこと。更級郡にあった当時の2町25村は近隣町村ごとに甲、乙、丙、丁 戊の五つの組で成り立っていましたが、各組でぞれぞれ独自の教科書をつくっていたのでしょうか。甲組職員会の事務局は上山田小学校にありました。
 新たな郷土学習 
 
現在の更級小学校です。同小でも毎年秋に行われる「縄文まつり」を核に、「ふるさと学習」を展開しています。
 縄文まつりとは、地元の羽尾地区から出土した縄文遺跡をきっかけに、縄文時代の衣食住という暮らしの体験をしてもらうことを目的に1992年から始めたまつりです。そのユニークな体験メニューだけでなく、住民が楽しんで参加するその自発性が他の地域からも評価されています。収穫の恵みを神に感謝する「豊穣儀礼」では、小学生がいつも主役を担っています。
 2006年からはまつりの日を登校日にして、全校参加するという意気込みです。体験メニューを来場者に地域住民と一緒になって提供します。自分の住んでいるところの伝統文化にまるごと体で触れる場です。まつりを支える年配のスタッフは戦前の郷土学習を知る世代。現代の子どもたちは何を学ぶのでしょうか。

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