50号・さらしな・姨捨は世界遺産にふさわしいか?

 さらしなと言えば姨捨。姨捨と言えば棚田。これを世界遺産にしようという動きが生まれています。千曲商工会議所の発案です。恵まれた気候、豊かな自然、山、川、そこに世界に誇れる歴史と文化があるというのが理由です。
 少しも劣らない
 シリーズ17号で触れたように、さらしなは、かつて桜の花で有名な奈良県の吉野山に並ぶ日本の代表的な名所でした。長野県軽井沢町の追分地区に残る分去れ碑に刻まれている「さらしなは右みよし野は左にて月と花とを追分の宿」がその象徴的な証拠です。右とは北国街道のこと左が中山道のことで、右を行くと名月で知られるさらしなに、左に進むと吉野に着くという意味です。
 吉野山は熊野古道など一緒に2004年、その自然の豊かさや、昔からの霊場と参詣道が今も息づいているところが評価され、世界遺産に登録されました。「さらしな・姨捨」を世界遺産にという発想が千曲商工会議所に生まれたのは、さらしながその吉野と同等の名所だったことに加え、次の歌の存在を知ったことも影響しています。
   更級も芳野もよしや月花にこれもはなれぬ雪の夕はへ
 この歌は滋賀県近江八幡市の文化振興課長、大西實さんが披露してくださったもので、直接お話を聞いた千曲市鋳物師屋の会社経営、馬場條さんから教えていただきました。天和2年(1682)、俳人松尾芭蕉の師でもある近江出身の北村季吟が、地元の八幡山に登り眼下に広がる夕映えの西の湖の美しさに感動して詠んだ歌で、更級の月、芳野(吉野)の花が古来、天下一の名所といわれているが、この八幡山から眺める西の湖の夕映えはそれに少しも劣らない。両者と並び称すべき天下の絶景だ、という意味だそうです。
 西の湖は琵琶湖に接する内湖、つまり大きな池の名前で、周辺にはヨシ原や水田、その間を縫う水路が今も豊かに残っているそうです。300年以上前のこの景観の美しさを詠んだ歌の発見が、「近江八幡の水郷」として、市民を挙げて「重要文化的景観」の指定に向かうきっかけとなったということです。
 重要文化的景観とは2005年施行の改正文化財保護法でつくられた制度。風土に根ざして営まれてきた生活や産業のあり方を示す景観地を「文化的景観」と位置づけ、その中でも特に重要なものを「重要文化的景観」と認定します。これに選ばれると、維持、管理、復旧に必要な経費が国から補助されます。その第1号に選ばれたのが近江八幡の水郷なのだそうです。西の湖と結びついて発展したヨシの加工産業が今も景観に溶け込みながら残っている点が高い評価を受けました。
 姨捨地区の棚田も、棚田としては全国で最初に国の「名勝」に選ばれています。名勝とは文化的景観の一つですが、指定を受けた1999年当時はまだ重要文化的景観という制度が設けられていませんでした。千曲市は名勝の棚田も含め周辺の七五㌶の重要文化的景観指定を目指しています。
 ただ、近江八幡や吉野ほどに、更級の姨捨は地元内外で、その価値が認められているか疑問です。北村季吟の歌には「更級の月」が盛り込まれてたからこそ、近江八幡市の人たちを活気づけたとも言えるのに、どうして当の更級はそれほどでもないのでしょうか。
 天と地の大空間
 まず更級が全国の人にとってあこがれの地になった理由についてです。これについて説得力のあるのが、矢羽勝幸さんが著書「姨捨・いしぶみ考」の中で披露している分析です。
 長楽寺からの眺望はまことにすばらしい。このすばらしさの本質は、世俗との間隔・距離にあるようだ。垢にまみれた現実の人間生活を適当に客観化できる位置にあるのである。三〇〇〇㍍級の高山ではこのような快感は得られない。聖と俗との適度な交流、宗教的な意味も含めて両者の境界が近世の姨捨山を誕生させたと考えられる。
 長楽寺は松尾芭蕉が江戸時代、17世紀末に訪ねたことによって全国的に観月の名所となったスポットです。眼下の千曲川の対岸に立つ山並みから顔を覗かせ、姿を徐々に現してくる月には、何か神秘的なものを感じます。町並みも田畑も手の届くようなところに広がっているので、矢羽さんの言う「聖と俗との適度な交流」というのは納得できます。「姨捨・いしぶみ考」は長楽寺と周辺に残る句歌碑を何度も訪ね足で稼いだ内容なので、この指摘には矢羽さんの実感が伴っています。
 天と地、つまり一番高い所(月の夜空)と一番低い所(水のたゆたう千曲川)の間に広がる大空間をひと息に体感できるところと言っていいと思います。「姨捨」という人の感情をを揺さぶらずにはいない古代からの物語を土台に、芭蕉の来訪を機に俳人たちが景観の美と人間の真実を盛んに句作するようになって、更級の姨捨は庶民の間に定着しました。
 しかし、「聖と俗との適度な交流」は明治時代以降、バランスが崩れます。鉄道が開通し、観月はだれでもかんたんにできるようになりました。平地は宅地化が進み、工場もできます。人々は夜、テレビを眺めるようになり、月が暮らしから遠ざかります。「聖」が「俗」に飲み込まれていきました。さらに高度経済成長という国家を挙げての路線が、老いの価値、役割を弱体化させました。大衆化とテレビの登場、急激な経済成長が更級の姨捨を地盤沈下させました。
 灰縄の実作
 もう一度、世界遺産についてです。登録の条件としては、蓄積された歴史のほかに、伝統文化が息づいていることが必要です。景観がきちっと残っていけません。さらに地元の人の誇りが大事です。
 そうした動きはあります。一つは棚田景観の保全に取り組むボランティア組織「名月会」の活動です。毎年、オーナーを募集して、田植えと稲刈りなどを支援しています。ほかに長野県庁の職員が有志で始めた「田毎の月棚田保存会」の協力もあります。
 もう一つは近江八幡の取り組みを教えてくださった馬場條さんが発起人になって進めている「栞の故郷」運動です。姨捨山に捨てられる老婆が背負ってくれている息子のために木の枝を折って帰りの道しるべにしたという説話をもとに始めました。更埴西中学校など学校も巻きこんだ活動です。
 昨年は姨捨説話の中にある老婆の知恵としてよくしられる灰でなった縄を、同中学校の生徒たちが実際につくってみました。その縄は姨捨サービスエリアや姨捨駅に展示されています。右のの写真がそれです。灰縄の上にある浮世絵は、枝折りを息子にためにしている老婆の姿を描いたものです。明治時代の作品です。原版は馬場條さんが購入し、今は千曲市に寄贈されています。
 吉野は古都・奈良に近いところであるせいもあって、今も「聖」の部分はきちんと残り、また地元内外の人もそれを感じています。一方、更級の姨捨は今、長野高速道、中央高速道、さらに新幹線が往来するもともと交通の要所なので、「聖」の部分をたくさん残すことが難しいところでした。しかし、徐々にですが、かつての更級と姨捨の栄光を再認識され、地元内外で関心を持つ人が増えています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。