57号・更級の歴史家・塚田哲男さん死去

 郷土史研究家で農業を営んでいらした塚田哲男さん(写真中央、以下哲男さん)が2007年5月23日、逝去されました。哲男さんは旧更級村(現千曲市更級地区)に生まれ育ち、当地の異称でもある「さらしなの里」の歴史の掘り起こしに生涯を捧げられました。私たちが今、当たり前のように話したり文章に記したりする当地の歴史や文化の多くは、哲男さんの研究成果に拠っています。
 萩戸の写真
 特に指摘しておきたいのが、シリーズ40号で紹介した京都御所の清涼殿にある「更科の里」の襖絵です。羽尾にある哲男さんのお宅をお訪ねしたとき、塚田家の山から切り出したヒノキなどの木材で造ったばかりの木の香りがする書斎に私を招き、御所にある美術品をカラー写真で紹介する本を書棚から取り出して見せてくださいました。1冊1万円を超える高価なもので、全12巻をお持ちでした。塚田さんもその発見が大変うれしかったのだと思います。年賀状に「更科の里」の襖絵を印刷し、私も「新年のごあいさつ」として頂戴しました。
 残念ながら清涼殿の内部はふだん、見ることはできないのですが、京都御所を特集した「毎日グラフ」別冊(毎日新聞社、1984年刊行)に、内部の様子を紹介する写真(写真右)を見つけました。哲男さんが亡くなる一カ月ほど前のことでした。清涼殿の中は、いくつかの部屋に襖で仕切られ、その一つの部屋「萩戸」に「更科の里」の襖絵があります。この部屋は平安時代、天皇の居室だったという説もあるところです。写真は「萩戸」を北側から撮ったもので、右手前の襖が「更科の里」。冠着山(姨捨山)が見えます。
 塚田さんは私が新たな資料を見つけると、「よくやった」と誉めてくださいました。この資料を哲男さんにお見せできなかったのが残念です。
 焼却の危機
 更級村初代村長の塚田小右衛門さんの功績を明らかにしたのも哲男さんでした。小右衛門さんは姨捨山としての冠着山の復権運動に取り組み、それをベースに当地を世に知らしめる仕事を生涯をかけてした方でした。
 その功績を哲男さんが紹介するに当たって基にした資料が、小右衛門さんが更級村にまつわる公文書や出来事を書き留めた和綴じ文書なのですが、これは昭和30年(1955)の市町村合併で、更級村の名がなくなった後、焼却の危機にありました。哲男さんはもらって帰ったそうです。そこには「真の姨捨山は冠着山である」という論文など歴史的に価値の高い記録がたくさん盛り込まれています。
 もし燃やされていたとしたら、小右衛門さんの仕事の多く、いや、さらしなの里の歴史の核心が永久に消えてしまったかもしれません。もらい受けた当時、哲男さんは20歳代後半。哲男さんのお宅は小右衛門さんのお宅の隣、親戚になります。更級村の名をつけるに至った経緯を紹介する哲男さんの論文「更級村命名の由来」も、小右衛門さんが残した資料を踏まえたものです。これは当地にとって不朽です。
 山本茂実さんとの親交
 平成4年(1992)、ボランティア集団「さらしなの里友の会」の発足と同時に、哲男さんは副会長に就任。親交のあった作家の山本茂実さんを招いて講演会を開きました。山本さんは映画化もされたルポルタージュ「あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史」で有名な方です。山本さんは晩年、姨捨山のことに関心を寄せ、当地を幾度も取材に訪れました。そのとき資料やお話を提供したのが哲男さんでした。その取材成果をもとに山本さんは「人生、幕引きは芸術である―わが心の姨捨山 」(講談社)という本を書き上げました。
 当地で出土した縄文時代の遺跡をきっかけに生まれた縄文まつりでは、哲男さんら年配者の情熱が地域を動かし、今では地元の更級小学校の全児童が参加するまつりに発展しました。上の哲男さんのお写真は、さらしなの里歴史資料館前で縄文人の服装をしているときに撮影したものです。
 更埴市、上山田町と合併前の旧戸倉町時代には町誌編纂委員、文化財調査委員、戸倉史談会長を歴任しました。冠着山の財産区議長も務め、山の景観を守るために尽力しました。1970年、大阪万博の開かれた年から毎年作られている更級小PTA文集「さらしな」も哲男さんが中心となって発行を始め、開校百周年記念誌「さらしなの里」の編集でも哲男さんは大きな役割を担いました。
 大地のような人柄
 哲男さんの人柄をしのばせる言葉として「なるほど」と思ったのが、葬儀・告別式でさらしなの里友の会会長の豊城巌さんが述べた弔辞です。
 豊城さんは哲男さんを、力強く時として優しく大地のような人柄と評しました。そして、老いも若きも強者も弱者も、すべての人の命をみつめながら人を活かす教育者でもありました、と振り返りました。
 私は郷土史を学ぶバランス感覚の大切さを哲男さんから学びました。えてして郷土のことは自慢ばかりしたくなり傲慢にもつながるのですが、冠着山にしても、四方の麓の住民だけでなく遠くから眺める人たちにとっても「それぞれの冠着山がある」と、偏狭な郷土愛を持たないよう戒められました。戦中派ならではのご助言でした。
 商店を営む私の実家では、哲男さんによく焼酎をお買い上げいただくことがありました。農作業や炭焼きの仕事の跡がうかがえるお顔で冗談を言っては、うれしそうにお帰りになる姿が忘れられません。愛車のオートバイに背筋をピンと伸ばしてまたがる哲男さんにはユーモアと不思議な格好良さ感じていました。年配者だけでなく、四十代半ばの私のような若年層も、座が興じると親しみを込め哲男さんを「てっつぁん」と呼んでいました。
 女性への気遣い
 哲男さんはクラシック音楽がお好きでした。葬儀・告別式の会場では、特に好きだったチャイコフスキーの曲がずっと流れていました。ピアノコンサートなどに奥様の愛子さんと一緒によく出かけ、鑑賞後は「高級料亭で飯食うだ」とおっしゃっていたそうです。親しい女性には「おい、首飾りぐらいしろや」。農作業や家事で、とかくおろそかになりがちな身だしなみやおしゃれへの関心も忘れないように、という心遣いだったようです。
 写真左は羽尾の郷嶺山に建てられた初代更級村長、塚田小右衛門さんの顕彰碑(右)を哲男さんが解説している様子です。左でメガホンを持っているのが哲男さんです。2005年9月に行われた栞の故郷ウォーキングの一場面です。
 哲男さんは昨年八月、農作業中に大けがをしました。ご回復を祈っていたのですが…。享年79。心よりご冥福をお祈り申し上げます。(哲男さんの研究成果を踏まえたシリーズの号は次の通りです。6、7、13、14、26、30、33、34、36、37、39、40、41、44、51、52、53)

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