更旅73号 「蜻蛉日記」の創作方法に学ぶ

  菅原孝標女が自分の日記に「更級」をうたったのには、彼女の叔母にあたる右大将道綱母が残した「蜻蛉日記」の創作作法に学んだ可能性があります。
 蜻蛉日記は道綱母が生きたうちの954年(天暦8)から約21年にわたるもので、夫の藤原兼家との結婚生活の苦悩から次第に子どもの道綱の養育に専念していくさまを記したものです。
 藤原兼家は、源氏物語の作者、紫式部を天皇家に仕える女房に採用するなど平安王朝の宮廷文化を花開かせた藤原道長の父親です。兼家の時代の貴族男性は一夫多妻が普通で、道長は別の妻が生んだ子どもでした。彼女の名前「道綱母」は自分の子から取ったものです。
 結婚生活の苦悩は一夫多妻制も理由でした。道綱母は兼家から結婚を求められたのに、兼家がほかの女性とねんごろになり、「自分のもとを訪れなくなったと」日記の中で嘆いています。
 そんな道綱母と孝標女の共通点に長谷寺(奈良県桜井市)での参籠があります。孝標女が参籠のため京を出立したのは「大嘗会の御禊」の日だったことをシリーズ68で紹介しましたが、道綱母も大嘗会の御禊の日に長谷に出発しているのです。新天皇が即位する重要儀式の日に人から批判されながらあえて旅立ったのは、権力者の傍系の妻としての苦悩から解放されたかったからかもしれません。
 道綱母が長谷に旅立ったのは、968年(安和元年)9月。兼家から「新天皇の即位に伴って、第一の妻である時姫の娘が天皇家に奉仕することになっている。これを済ませてから一緒に参ろう」と誘われていたのですが、道綱母は、他人の産んだ娘のことなど関係ないと断って、参詣に出かけました。「右大将道綱母」(新典社)の著者である松本寧至さんは「時姫と確実に社会的に差がついたことがつらかった。長女入内でそわそわして準備に追われている兼家の様子を毎日耳にしながらじっと家に閉じこもっていることは、道綱母には耐えられなかった」と分析しています。 
 道綱母は995年、60歳ぐらいで亡くなったとされていますので、1008年生まれの菅原孝標女は当然、一度もあったことはありません。しかし、物語大好きの孝標女でしたから、おばさんが書いた日記も読んだはずです。蜻蛉日記はあきらかに他人の読者を意識した文体です。貴人の妻として生きていくことがどのくらい大変なことでか、本当に高貴な暮らしをしているのかどうか知りたいのなら私のような例があるので参考にしたらいいと、日記の冒頭で宣言しているのです。
 蜻蛉日記は平安中期、一人の人間として生き遂げたいと願いながら、そうはいかない事情や子育てへの思いなど貴族女性の心中を推し量ることができる貴重な日記です。自分が頼みとした後朱雀天皇が退位して出世も絶たれた孝標女も「おば様もこんな苦労をなさっていたのですね」と結婚、子育てを経て人生を振るかえる年齢になったとき、感じ入った可能性があります。「おば様だって大嘗会の御禊があっても自分の判断で長谷に出かけたのだから、私だって…」と考えたかもしれません。
 平安王朝の女性がしたため現在に伝わる日記文学は「紫式部日記」など作者名をうたったものが目立つ中で蜻蛉日記は異色です。道綱母はそのタイトルをつけた理由を日記の中で「世の中と思ひしものをかげろうのあるかなきかの世にこそありけれ」という古今和歌集収載の歌などを引用し、「かげろうのようにはかない人生だった」という趣旨のことを記しています。
 孝標女も「おば様は『かげろう』という言葉をタイトルに付けたことによって多くの貴族女性たちを読者にすることができたのだわ」と考え、自分の日記のタイトルもひとひねりして「更級日記」とした可能性があります。
 写真は、道綱母が参籠した寺の一つ石山寺(滋賀県大津市)に伝わる絵巻の部分で、道綱母が法師から水を膝に受ける夢を見たというエピソードを絵にしたものです。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。